鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―191―って破滅へ追いやられてゆく葛藤と愛憎を描き、主役の市川猿之助、村田喜久子らのエキゾチックな衣裳と相俟って、強いインパクトを与えるものだった。全3幕の背景はそれぞれ室内、洞窟、密林を描き、特に第3幕下絵〔図3〕に見る華やかな色彩と構成は、物語と役者の衣裳ともよく調和して、観客の目を楽しませたに違いない。近代化が進んでゆく時代にあって、新しい文学にふさわしい美的な装幀・挿画、舞台改良につながる淡い調和的な彩色の背景画が求められる中、洋画家らは知識と技術の面で、こうした要求に応えうる存在であった。出版社、興行主にとっては、新鮮味を感じさせる洋画家の採用は、高い宣伝効果を上げることにもなった。洋画家らによるグラフィック・デザイン、舞台背景は、不特定多数の一般の人々に、彼らの存在を意識させるのに絶好の媒体でもあった。ここでは触れる余裕がないが、大流行した絵葉書の図案なども含めて、和田ら洋画家が社会の要求に応じて筆をふるったことは、絵画以外の活躍の場で能力を生かすという彼ら自身の喜び以外にも、人々の美術への意識を高めて、洋画振興という大きな課題の達成に資する意義をもたらすものであったと考えられる。3.都市を飾る―建築装飾への取り組みこのように、グラフィック・デザインや舞台背景は、画家の「余技」と見なされる一方、彼らが関心と遣り甲斐をもって臨み、社会的に見て意義の少なくない活動だった。しかし、装飾美術の分野で、洋画家らが新たな活躍の場として強い憧れと期待を寄せ、より大きな意味を見出していたのは、次々に建設されていった洋風の公共建築や個人邸宅の内部に、洋画による壁画・天井画などの建築装飾を実現させることだった。和田の周囲でも、黒田清輝をはじめ、藤島武二、久米桂一郎、岡田三郎助らが、異口同音にその希望を語っている。白馬会系洋画家らは、多くの建築装飾を手掛けていくが、その中でも際立った活躍を見せたのが和田だった。洋画家による建築装飾は、近年の美術史研究で様々な角度から取り上げられているが(注13)、和田の業績に関する研究は、まだ充分とは言えない。以下では簡単ながら、彼が種々の建造物に、多様なテーマで装飾を実現させていった過程を、年代順にたどってみたい。早い時期の和田の装飾画としては、1904年に三井呉服店の依嘱により制作した大画面の美人画「今様美人」があり、岡田三郎助の「元禄美人」と対を成していた(注14)。しかし、これは独立したタブロー形式であり、建築内部に油彩画を張り上げた本格的な建築装飾を和田が最初に手掛けたのは、個人邸宅においてであった。*

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