*中期ビザンティン聖堂の「Choir of Saints」―12―――11、12世紀ギリシアの場合――研 究 者:早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程 海老原 梨 江は、中期以降のビザンティン聖堂壁画を特色づける要素のひとつである(注1)。聖堂装飾プログラムは、建築の上部から下部へと概ね三層に大別され、上層はキリストや聖母子、中層はキリスト伝諸場面、下層は主教や殉教者などの聖人が並ぶ〔図1〕。本稿では最下層に焦点を当て、次の問題を検証し論じたい。聖人像が堂内壁面下部に組込まれる歴史的経緯、聖人像の性格の変容、そして全体のプログラム上で果たす役割についてである。聖人像に関しては、個々の聖堂の包括的な研究において記述され、また一聖堂内での部分的な聖人プログラムが議論されることはあったが、同時代の聖堂を広く比較検討した上で、この種の図像が聖堂装飾プログラムに如何なる位置を占めるのか、詳細に分析されては来なかった(注2)。本稿の考察対象である11・12世紀は、帝国が政治的・文化的に復興を果たし繁栄を享受したのち、瓦解と衰退へ向かう時期である。イコノクラスム(聖像破壊運動、726−843)終結後、美術史上も隆盛し、数多くの作品が制作された。修道院の繁栄と典礼形式の整備により作品の量が増加し、その質も大きく変化する。該当時期の壁画はギリシアで78聖堂に見られる(注3)。後世の重ね描きや破損などの理由で、完全にオリジナルのプログラムを維持する聖堂は多くない。現段階で20聖堂を調査したが、その半数で壁画の一部分、あるいは大部分を欠く(注4)。中期ビザンティンの聖人とは、殉教者・神学者・隠修士・聖像擁護派・奇跡を起こす修道士等々、数百年という期間に生み出された「キリストの写し身imago Christi」の総体である(注5)。殉教者に対する礼拝は古代ギリシア・ローマ期における葬礼を雛形とするが、死者への弔いは時代の変遷と共に殉教者を主たる対象とするようになった(注6)。死者の記念日は殉教者のそれへと姿を替え、年間を通じ日々祭るべき聖人の一覧が各教会で作成される。聖人の数は数千に膨れあがり、帝国各地で独自の暦に基づく典礼が執られたが、統一を図るため10世紀の官僚シメオン・メタフラスティスの手で暦の編纂が行われた(注7)。彼のメノロギオンは11・12世紀に盛んに書写され、日々の聖人の肖像を施した挿絵入り写本も多数制作されることとなる(注8)。O. Demusが「choir of saints」と表現した、壁面下部に並列する聖人のイコン的肖像
元のページ ../index.html#20