鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―192―1908年に竣工した岩崎彌之助高輪邸(現三菱開東閣)は、建築家ジョサイア・コンドルによる邸宅建築の白眉とされ、内装にも意匠が凝らされた。和田が揮毫した2階舞踏室の壁画・天井画は特に話題を呼び、竣工後、「階上階下の客室や夫人客室等は頗る華麗を極め、就中舞踏室は、壁面天井共仏国式の油画を描いてあるが、之れは彼の有名なる和田英作氏の筆で三保の松原の景を描いてある」(注15)と報じられた。「仏国式の油画」とあるのは、19世紀のフランスで盛んに用いられたパンチュール・ド・ラ・マルフレー工法、つまり油彩画を描いたカンヴァスを壁面に油性糊料で貼付する方法が採られていたことを指している。初代梅若実に師事し、本格的に能の仕舞を習っていた施主の岩崎彌之助は、新築される邸宅の舞踏室で、自ら謡曲「羽衣」を舞いたいという夢を抱いていた(注16)。だが彼は夢の実現を待たずして邸宅竣工後間もなく他界し、1945年の戦火で建築内部が焼失した際、和田の壁画・天井画も失われた。しかし、この壁画には試作段階と最終段階の2組の下絵が現存しており、失われた壁画の準備過程と、完成作の図様・色彩を示すものとして貴重である(注17)。鹿児島市立美術館に所蔵されている試作段階の《下絵(壁画)春景》、《同夏景》、《同秋景》〔図4〕、《同冬景》4点には、それぞれ四季を表現する自然景、草花・樹木、芸能にまつわる能面や楽器などのモティーフが配されたパネルが描かれている。画中の英語キャプションには、英語を母国語とするコンドルへの配慮が見られる。静岡県立美術館所蔵の《下絵(松林)》2点のうちの1点〔図5〕は、画面上部の図様が、完成後の舞踏室写真〔図6〕に写っている北側壁面の壁画とほぼ一致しており、コンドルの設計図面をトレースした上に描いた最終段階の下絵であったことが分かる。コンドルから依頼を受けて下絵を色々と試作した結果、最終的に謡曲「羽衣」に画題を採り、物語の舞台である「三保の松原らしい景色」を描いたことは和田の談話からも知れるが、ここには静岡の三保ではなく、和田がその「潮風に年を経た松が一番ふさはしい」と考えた千葉稲毛海岸の風景が写し取られている。和田は1906年、文学などでよく知られた稲毛の海気館に宿を取り、約8ヶ月間かけて下絵を考案、本画は同じ地所内の旧ジョルジュ・ビゴー画室を借りて制作した(注18)。舞踏室の内周40m以上にわたる壁面は、窓・扉・暖炉・鏡等を除いて大きさや形状の異なる矩形パネルで覆われた構造になっていた。それら28面のパネルに、舞踏室という部屋の性格にふさわしいモティーフをちりばめる案を廃し、全パネルに連続性を持たせて、岩崎彌之助が「羽衣」を舞うための舞台としての三保の松原を現出させた。この装飾プランは、施主の夢の実現のための「舞台背景」でもあったのである。

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