**―193―しかし、パノラマ的な自然景のイリュージョンに陥ることを避け、装飾としての機能を発揮させるために、高い位置に地平線を引き上げて平面性を持たせ、松林を並列的に描いて三次元的な奥行きを遮蔽し、背景に黄色い光に満ちた平滑な空間を配している。この静謐な象徴性をも醸し出す背景の色遣いは、和田が「尊敬崇拝して止まない」と語ったピュヴィ・ド・シャヴァンヌの代表作、ソルボンヌ大学大講堂壁画との共通性を見せており、同様に松林にも、和田がシャヴァンヌ独特の天分であると考えていた風景の「作画のコムポジション」(注19)が応用されているのが見て取れる。だがそれだけでなく、画中の松の梢や地平線の連なりを、室内のカーテンや扉の線と流れるようにつないで、壁面全体に連続的なまとまりをもたらしているのは、和田独自の工夫だろう。この頃の和田は、岡田三郎助、満谷国四郎、長谷川昇、九里四郎、渡辺審也とともに、慶応義塾関係者による日本初のメンズ・クラブ交詢社が改築された際、演芸室の壁画制作にも携わっていた。彼自身は、舞台上部の壁画を1908年に完成させている(注20)。岡田が描いた古代ギリシャ神話の女性像《9つのミューズ》(1910年)はよく知られているが(注21)、和田の作品については詳細不明である。ちなみに同じ1908年には、船舶装飾も手掛けており、東洋汽船の依頼で、三菱長崎造船所建造による豪華客船天洋丸・地洋丸の装飾画を次々に揮毫した(注22)。1911年に竣工した帝国劇場には、再び謡曲「羽衣」をテーマとして観客席上部に天井画を、2階食堂には「時代風俗十二ヶ月」を描いた壁画を完成させた。この装飾については和田自身の談話が残されており(注23)、特に天井画《羽衣》はこれまで数々の研究で言及されていることから(注24)、和田の建築装飾の中では最も良く知られているものだろう。13面から成る大天井画は、岩崎邸が風景による「羽衣」の象徴的表現だったのに対し、天女の群像によって構成され、羽衣天女が織り成す「虚空に花降り、音楽聞こえ、霊香四方に薫ず」という幻想世界を、富士と薔薇とともに描いた。そこにはシャヴァンヌからの引用、和田の生涯のモティーフの集合が見られ、黒田清輝が日本に導入しようとした構想画の影響、背景を伴った群像表現による歴史画という当時の洋画家にとっての課題の困難さが観察されるという先行研究の指摘は、示唆に富んでいる。帝国劇場との関係では、劇場竣工以前から和田が装飾全般の顧問に就任し、前述のように、その後背景画制作に携わり、背景部に教え子を送り込んだことも、留意されるべき業績だろう。
元のページ ../index.html#201