鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―194―のちに帝劇の天井画・壁画が関東大震災の劫火に焼け落ちた運命と同様、和田が心血を注いだ建築装飾のほとんどが震災あるいは戦災で失われていった中、1914年に完成させた東宮御所赤坂離宮喫煙室(現迎賓館東の間)の壁画は、もともと設置された建築空間に、当初の状態のまま現存している唯一の作例として貴重である。これまで作者が和田英作であることは知られておらず、先行研究でも触れられていないが、明治期の国家的プロジェクトとして衆目を集めた赤坂離宮と日本人洋画家との装飾を通した関わりにおいて、最大の成功作と言ってよいだろう。1909年の赤坂離宮竣工時、喫煙室のアルハンブラ宮殿を模したイスラム様式(ムーリッシュ様式)による絢爛たる室内装飾は完成していたが、壁画が入るはずのアーチ窓形の壁面15箇所は空白のまま残されていた。1914年7月、一斉に壁画完成を報じた新聞各紙(注25)によれば、前年9月に壁画揮毫の御下命を拝した和田は、画材として塚本靖、伊藤忠太、久米桂一郎、内匠寮技師らから写真等の提供を受け、エジプト・カイロ付近の市街の一部、椰子その他の植物、ナイル河等の風景を描くことにした。はじめは室の様式に合わせて「アルハンブラ宮殿の周囲を描いた所が、伊太利辺の感じがすると云ふので」、カイロ付近の景色に描き改められることになったのである。最も腐心したのは、複雑なアラベスク模様の装飾石膏に青・緑・赤・黄・白等の色彩と金泥が施された天井および壁面、フランス製彩釉タイルの腰壁、西陣製緞帳窓掛け、絨毯など、室内の燦然たる配色との調和を取ることである。「室全体を椰子林の如き気分」にしようと意図し、パノラマ的にならないよう「壁画の素養として成るべく平面的に」描くことにも苦心を重ねた。着手後、毎日のように赤坂離宮内出張所に通って揮毫し、喫煙室内で光線の具合をも研究したという。そして、10ヶ月をかけて、総面積約35平方メートルにおよぶ15面の油彩壁画大作を完成させた〔図7a・b〕。新聞各紙は、「埃及カイロ附近の優雅なる風景を取り総て貴族的なる窓掛敷物等と相映じ誠に崇高なる出来栄えなりといふ」、「全体に柔かく快き感じを与ふるに努めコンも亦頗る結構にして近来稀に見る傑作なりと」と、高い評価を伝えている。ちなみに、この室はスペインのアルハンブラに倣った内装を持ちながら、いつの頃からか壁画に因んで「エジプトの間」と呼ばれるに至っている。7月9日に完成した赤坂離宮喫煙室壁画が大成功を収めた一方、その僅か2週間余り後の7月27日に完成したもうひとつの大作、中央停車場(東京駅)皇室専用入口中央大ホールの壁画《海の幸・山の幸》に対する評価は対照的であった(注26)。この壁画制作は、前年初頭から3月にかけて、黒田清輝が鉄道院から打診されたことに始まり、短期間で仕上げる大事業であるため、4月に東京美術学校の依嘱製作として受〔ママ〕ムポジヨ

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