―195―注し、黒田の監督指揮のもと、和田が実質的な制作に当たることになった。和田は壁画予算案の立案や画布の調達などの実務もこなしている(注27)。鉄道院側が神代に題材を取った「海の幸・山の幸」を希望したのに対し、黒田は同時代の「大正の今日の有様」を描く案を立て、1913年秋に第一の下絵を作成した(注28)。1913年秋と言えば、和田が赤坂離宮の壁画揮毫の御下命を受けたのも同年9月である。それから和田は中央停車場壁画のための材料を、助手と手分けして集めたと言うが、確かに彼の画帖には完成作につながるスケッチが残されている〔図8〕(注29)。同年中に大体の下図が決定、1914年正月から5分の1の下絵、3月からモデルを使っての本画制作、7月27日に完成した壁画が現場に張り上げられた〔図9〕。この一連の流れは、和田が御下命を受けて「家門の光栄之に過ぎず」と「爾来専念苦慮揮毫」(注30)して成功させた赤坂離宮の壁画と、全く同時進行していたことになる。先行研究で指摘されているように、同時代の海運、陸運、漁業、農業などの諸産業を描いた中央停車場壁画は後に酷評され、和田は「僕が引き受けて遣つたと云ふ訳でもなし」、「出来る丈け黒田先生の意見に因づいて、描いたが、先生の方でも、自分で手を下さねば、思ふ様に気にいつたものが出来ぬと云ふような事で」と、責任の所在を曖昧にするような発言を残している(注31)。和田が全責任を負った赤坂離宮壁画が成功を収めたのに対し、師である黒田を指揮監督に拝した中央停車場壁画が不評だったことは、後の赤坂離宮壁画に関する和田の沈黙の一因となったのではないだろうか。さらに上述の2つの壁画の制作時期をまたいで、慶応義塾創立50年記念図書館(現慶応義塾旧図書館)のステンドグラス下絵の推敲も進められていた。和田の原画〔図10〕に基づくステンドグラスは、小川三知によって1915年12月に完成されたが、最初の下絵は、1912年の竣工時には出来上がっていた。しかし慶応義塾側から色々な注文が出たために、度々作り直さねばならず、十数枚の画稿を経て、最終案が小川の工場へ回ってきたのは1915年に入ってからだった。和田は単に原画のみならず、小川の工場へ度々出向いて有益な注意を与え、人物の顔は自ら筆を執って焼付けたという(注32)。彼のステンドグラスに関する造詣の深さをうかがわせるエピソードである。ステンドグラス完成に先立ち、同じ1915年の春に竣工した日光東照宮宝物館において、和田はこれまでの西洋風建築の装飾から踏み出して、日本建築への洋画による壁画の適用という課題に臨んだ。そして《百物揃い千人行列の図》10面を、3月に下絵が決定してから、正味40日間で描き上げている(注33)。のちに宝物館建て替えの際に壁から離れて装飾の機能を失い、今はタブローの状態で新しい宝物館に展示されて
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