鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―196―いるが〔図11〕、現存している作例として貴重である。さて、ここまで個人邸宅、社交倶楽部、劇場、宮殿、駅舎、大学図書館、神社、と多岐にわたる建造物の装飾に筆で挑んだ和田の軌跡を駆け足でたどってきたが、恐らく彼が最後に建築装飾を手掛けたのは、1917年に竣工した開港記念横浜会館(現横浜市開港記念会館)においてであった。この会館は、翌年竣工の大阪市中央公会堂とともに、大正期の本格的公会堂建築の先駆けとなった記念建造物と位置づけられている(注34)。後者に現存する松岡寿の天井画・壁画はよく知られているが、前者に、創建時から関東大震災の火災で屋根と内部が焼失する以前、和田の天井画・壁画があったことは、今では忘れ去られている。階段室上部左右の壁画には、「横浜開港記念の真意義を明確に表顕する必要上」(注35)から、一方は「安政初年開港以前の横浜村の真景」〔図12〕、他方に「大正六年三月現在の横浜市実景」が描かれ(注36)、横浜の急速な変遷と人力の偉大さを見る者に認識させる目的が付与されていた。2階広間の中央円天井には、平和の意を寓した「紫雲靉くあたり各種薔薇紅白娟を競ひ白鳩空に舞ふ」という情景を描いた天井画が設置された。この建築の装飾関係の顧問は、和田の友人で建築装飾家の塚本靖が委嘱されていることから(注37)、壁画揮毫者の人選と画題選択には彼が深く関わっていたと推測される。壁画・天井画は焼失したが、壁画と同じ図様を縮小したと思われる和田英作のタブロー2点〔図13a・b〕が、1927年の会館復旧工事完成時から2階広間に掲げられており、かつての壁画の姿と色彩を偲ぶことが出来る。おわりに最後に、同時代の洋画家たちの中で、和田がとりわけ多くの建築装飾を実現させることができた理由を、簡単に考察しておきたい。まず第一に、和田には熱心な独学によって獲得した建築装飾に関する該博な知識があったという点である。留学期に強い感銘を受けたシャヴァンヌをはじめ、古代から同時代までの多数の技法・作家・作例にわたる建築装飾全般を深く研究し、講演や著述によって繰り返し豊富な知識を披露している(注38)。手掛けた建築装飾には研究から得たエッセンスが生かされ、それに加えてこの分野の啓蒙普及にも貢献した。第二に、壁画・天井画を手掛ける際には、和田は完全に装飾家(デコレーター)に徹した。建築家や施主の意向を汲み取り、建築空間と調和的なモティーフ・色彩・構図を工夫し、最善を尽くして期限までに仕上げる―こうした注文主側から与えられた*

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