―197―条件を優先させ、自らの制作を従属させる姿勢は、芸術家というより、一種の職人気質に近いかもしれない。そしてこうした「芸術性」の観点から見れば負とも取れる面は、和田の業績が美術史の視野の外に置かれがちであったことにもつながっているだろう。第三に、本稿では制作の経緯と協力者については詳しく触れえなかったが、実力、知名度、実績が信頼を得たという以外にも、和田の人事力が、建築装飾実現の鍵となっている。彼は洋画界での中心的立場と社交的な性格による幅広い人脈から、建築装飾を手掛けるチャンスに恵まれ、制作面での画材や情報、人的労力について協力を得ることができた。制作協力者という点では、本稿で取り上げた全ての壁画・天井画の作例において、東京美術学校卒業生ら複数の助手を使役し、自らの構想を完成に導いている。では、これほどまでに和田が熱意を注いだ装飾美術の意義とは何だったのだろうか。洋画家らが建築装飾にまだ希望をつないでいた大正初期、久米桂一郎は、洋画壇の将来を社会的に考えてみると、世間の趣味の低さや、建築物が外面ばかりを装い本当の意味で美的でないために、洋画が用いられる機会が少ないとして、「今後の洋画家は文展などばかりを覘はないで、各自が奮闘努力して対世的に戦はなければなるまいと思ふ」と語った(注39)。和田英作が社会と美術との関係性の中に自らの創作活動を位置づけ、建築装飾はじめ装飾美術の分野で払った様々な努力も、広い意味では洋画振興のための対世的な戦いであったと捉えることができるだろう。また、洋画家らが建築装飾に憧憬と期待を寄せ、社会の様々な局面で新しい装飾美術への要求が高まっていた一方で、日本には洋画による壁画・天井画の歴史も伝統もなく、新しい装幀・挿画や西洋風の舞台背景の先駆者も少なかった時代、和田が社会の多様な要求に応えていった意気込みと手腕は、先駆者として評価されるべきであると考える。その成否を問うなら、和田一人の力量だけでなく、同時代の状況をよく吟味検討してみる必要があるだろう。和田が抱えていた困難と問題は、日本近代美術を取り巻く環境に内在していた諸問題とつながっている。より広い視野から和田の活動の全容を捉え、再評価してゆくための更なる探究は、今後の課題としてゆきたい。[付記]本研究の調査に関して、青木茂先生、工藤康博氏、鈴木博之先生、泰井良氏、野田郁子氏、濱嶋めぐみ氏、原徳三氏、馬渕明子先生、山西健夫氏、山梨絵美子氏、和田楽氏、渡辺一郎氏に、ご教示とご協力を賜りました。深く感謝申し上げます。
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