―13―殉教者への崇拝とその形式が古代ギリシア・ローマ期に由来するごとく、殉教者像の源泉もまたその時代の葬礼美術に求められる(注9)。オランスの殉教者像は死者の肖像と同様、当初はおそらく墓の周囲に置かれた。初期の聖堂ではアプシス・ドーム・身廊に聖人が描かれたが、中期以降とは異なり奉献図像としての役割が大きい(注10)。ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂(547年頃)〔図2〕やサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂(549年)〔図3〕のように、献堂された聖人はしばしばアプシスに見られる(注11)。テサロニキのアギオス・ディミトリオス聖堂では、寄進者を伴う板絵イコン的なディミトリオス像モザイクが身廊に散見される〔図4〕。聖人と暦の関係を示す例として、テサロニキのアギオス・ゲオルギオス聖堂のドームモザイク(5世紀)を挙げよう(注12)。外円部は8区画に分割され、古代風建築を背景に17名の聖人立像が現存する〔図5〕。銘が付され、名前と職業、そしてラテン式の暦による祭日が明記されるが、聖人の配列に日付の順序は関係していない(注13)。イコノクラスムを経て、聖人像が新たなプログラムに組込まれていく過程を辿ることは、十分な作例を欠くため困難である。800年代、首都のストゥディオス修道院に聖人の立像が並べられたと推測されるが、配置場所は判然としない(注14)。バシリオス1世の献堂になる新聖堂Nea Ekklesia(880年)も現存しないが、北扉から続く側廊に様々な聖人の殉教場面が描かれたことが知られる(注15)。首都のアギア・ソフィア大聖堂の南北壁・南階上廊には正面観の主教像が配列された(注16)〔図6〕。この時期、後世の如くプログラムが存在したのか、その原則が聖堂間で共有されていたか否かは不明である。11・12世紀は国情や経済の安定、貴族や修道院の台頭等から、数多くの聖堂・写本・イコンが制作された。建築的な位階と聖人の階級の対応、そして典礼暦が、この時期の聖堂装飾プログラムの基本的な枠組である(注17)。聖堂建築は、東から西へ、上部から下部へと二重の位階を設けられ、冒頭に述べた図像配置の原則が一般的となる。聖人が並ぶ下層内においても位階があり、それに従い主教・兵士・殉教者・聖治癒者・修道士・女性聖人等が配列された。ただしこの枠組は緩やかで、聖堂により変動が見られる。フェレス(ギリシア北東部)にあるパナギア・コスモソティラ聖堂(12世紀)の南北腕部では、壁面上部より高位聖職者・預言者・兵士の胸像・東側に向かい上体を傾げる主教の順に配置された(注18)〔図7〕。預言者よりも聖職者が、主教よりも兵士が上部に置かれる。アプシスの主教らが中央に頭を垂れる姿は12世紀以降普及する表
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