鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―214―るのではなく、歴史研究の手法に基づきながらコレクションを膨らませていったのである。革命以降のルーヴル美術館に関する行政文書の調査を通して、クーラジョが見出したのはルーヴル彫刻部門の原点とも言うべき過去のコレクションの存在であった。それはアレクサンドル・ルノワールが設立したフランス記念物博物館である。革って分散した作品の一つ一つを探し出すことによって、かつてのコレクションをルーヴルに出来る限り集めることが、着任した当初のクーラジョが目指すところであった。しかし旧フランス記念物博物館コレクションの獲得は、クーラジョが初めてではなく、先代の学芸員たち〔表1〕が要求リストを提出し、その一部は段階的にルーヴルに移されてきた。そもそもコレクションの移動は、政治体制の変化がもたらした二つの事態に起因する。一つは、ナポレオン失脚後の略奪美術品返還決定(1815年)によって、ルーヴルはスペースを埋めるために新しいコレクションを必要としていたこと。もう一つは、王政復古の政府がフランス記念物博物館に対して、歴代フランス王の墓をサン=ドニ修道院に戻すばかりでなく、かつての所有者や教会に対しても作品返却を命じたことにより、1816年に閉鎖に追い込まれたことである。当時の美術館長フォーバンが「初期王政以来のフランス彫刻の生き生きとした流れ」(注1)を示すものとしてルノワールによるコレクションに興味を示したことから、返却後に残った作品群の一部をルーヴルに移送することになった。新たなコレクションを受け入れるため、ルーヴルはクール・カレの西側一階「アングレーム・ギャラリー」〔図1〕と呼ばれる場所に展示室を準備したのである。1824年のアングレーム・ギャラリーの公開は、それまで古代部門しか存在しなかったルーヴルにとって近代彫刻部門の誕生であり、クーラジョにとっては旧フランス記念物博物館の復元作業の始まりを意味していた。古代彫刻部門の学芸員クララックによれば、「これらの5つの新しい展示室における彫刻の大部分は、プチ=ゾーギュスタンからのもの」であり、「フランス派の巨匠である、ジャン・クーザン、ジャン・グージョン、フランシュヴィル、ジェルマン・ピロン、ル・ピュジェ」を中心として、「フランソワ一世、アンリ二世、ルイ十四世の時代」(注2)に制作された94項目の作品が展示されていた。この記述からも分かるように、1824年までにルーヴルに移送さヴァンダリスム命期の文化破壊を逃れた作品の保管所として修道院跡に設置されたのが始まりで、中世の作品を初めて展示した博物館として知られている。19世紀前半に人気を博したものの、20年ほどで閉鎖され、コレクションは散逸してしまった。クーラジョが蒐集の拠り所としたのがこの博物館である。ルノワールが集めた作品群を把握し、閉鎖によ

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