鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―215―れた彫刻は、16世紀以降の王政時代に活躍した著名な芸術家による作品である。クーラジョの解説によれば、これらの作品は救われたものであって、敷地内に置き去りにされた大半は長い間見捨てられ、価値のないものとみなされていた。残されたコレクションの管理は、博物館閉鎖後に設立された美術学校に任されていたが、「大量の彫刻が室内から出されて、湿った中庭の屋根のないところに積み上げられ、(…)悪天候に曝されていた」(注3)。それらが中世の彫刻群であったことは容易に推測できる。美術学校によって中庭や庭園に放置され、地下室に押し込まれた彫刻群は、美術館行政の方針や学芸員たちの努力によって少しずつ美術館に保護されていった。七月王政がヴェルサイユ美術館で進めていたフランス史に基づくコレクション形成のために、プチ=ゾーギュスタンから数々の人物像が運び出された。また、ルーヴルでは第二共和政下に近代彫刻コレクションが二つに分割され、17、18、19世紀の彫刻はアングレーム・ギャラリーの展示室にとどまり、ルネサンス以前のコレクションはクール・カレ南側に移動した。この頃、新しい展示室のための蒐集に力を尽くしたのはレオン・ド・ラボルドである。フランス芸術の起源から始まる彫刻コレクションの構想を抱いていたラボルドは、とりわけ旧フランス記念物博物館の彫刻を探していたのであり、美術学校の管理下にあった作品群の一部を“救出”した。さらに彼は売却に出されている作品があればルーヴルに購入させるばかりでなく、ヴェルサイユ、リュクサンブール、フォンテーヌブローの美術館から作品を引き抜いてきた。南側の新しい展示室が「中世の高貴で貴重な芸術にルーヴルの市民権を認めたこと」(注4)として評されたように、ラボルドのフランス美術史への関心が、ルーヴル彫刻コレクションの領域をルネサンスから中世にまで広げたのである。しかし1854年の解任はラボルドの蒐集活動を中断させることになった。クーラジョはその理由が古典主義者たちの敵意と憎しみにあると明言する。ルーヴルにガロ=ロマンから近代に至るフランス彫刻の美術館を作るという計画は、美術アカデミーにとって芸術の聖域に対する冒涜であり、阻止すべきものであった。第二帝政期における古典主義美学の支配とイタリアへの信仰は、ラボルドが積極的に集めていたフランス中世・ルネサンス彫刻を無関心と軽蔑の対象として貶め、古代及びイタリアとの文脈でしかフランス彫刻の展示を認めなかったのである。第三共和政に入ると、ラボルドの遺した仕事は、バルベ・ド・ジュイ、エドモン・サグリオを経てクーラジョに受け継がれていった。クーラジョの時代において、旧フランス記念物博物館に由来する彫刻群の蒐集計画は大きく前進することになるのだが、彼はアングレーム・ギャラリー

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