―227―には天冠台にしかあけられておらず、こちらには天衣がとめられていなかった可能性が高い。これらの相違点を理解するには、結論は一つしか導き出し得ない。すなわち、光台寺像が東博像より先行して造像された可能性が極めて高いのである。中尊の衲衣両側面の単純な線刻は、これら両像のもととなった型の劣化により鋳出が不可能になったために施されたものと思われる。なおこの相異が単純な湯のまわり具合によるものでは無いことは、東博像において、衲衣だけではなく裙においても非常に単純化された衣文表現をとっていることではっきりと否定できる。両像においてもっとも大きな相違点は両脇侍の宝冠である。東博像は善光寺式に多く見受けられる六角宝冠をいただき化仏・水瓶をあらわすが、光台寺像では六稜に表されるもののその形は円筒形で、しかも観音・勢至の標識はあらわされないという、現存遺例の中でも非常に特異な表現となっている。この表現について明確な解答を得るのは困難ではあるが、そもそも善光寺仏についての最も早い記録である『扶桑略記』の記述のもととなった『日本書紀』の記事には「金銅釈迦像一躯」と明記されており、善光寺如来が阿弥陀と観音勢至であるとは記されていないことは注意すべきである。もし光台寺像が信濃善光寺の本尊像の姿に近いものであるならば、当然宝冠の標識はあってはならないこととなる。善光寺式三尊の源流ではないかと目される、東京国立博物館蔵の如来及両脇侍立像(法隆寺献納宝物第143号)においても両脇侍の宝冠に尊名を示す標識があらわされないことも一考に値しよう。いずれにせよ、善光寺式三尊に通例となっている六角や八角の宝冠の起源自体が不明であり、まさに東博像こそがその嚆矢であることを鑑みると、光台寺像の宝冠がより古い姿を伝えていると見ることのほうが自然ではないか。このように考えると、両像の関係は、やはり両像は基本的には同じ型を用いて造像されてはいるものの、繰り返し使用されたその型が摩耗し劣化したのちに東博像が制作されたため、その細部の造型が甘くなったとするのがもっとも合理的であろう。従って、両像は全く同じ型を用いて鋳造された遺例であること、また型に損耗が見られる以上、その材は木型であると考えられること、さらに損耗の度合いから考えると光台寺像と東博像との制作時期に少なくとも数年から10年程度の懸隔があると考えることができよう。四、北関東・東北にのこる同系統の善光寺仏と光台寺像東博像はこれまで、同系統の善光寺式仏を考えるうえで最も重要な作品とされ、福
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