―228―島・熊野神社像(銅造、中尊のみ)、茨城・信願寺像(銅造、中尊のみ)、埼玉・龍高寺像(銅造、中尊のみ)、長野・八木虚空蔵堂像(建治元年(1275)銘、鉄造、中尊のみ)、埼玉・天宗寺像(鉄造、中尊のみ)、栃木・大乗寺像(鉄造、中尊のみ)など多くの遺例と同型と見なされてきた。これらはいずれも中尊しか遺っておらず、細部にわたる比較検討が困難であったことがその一因であろう。しかし三尊を完備する光台寺像の検討により、これらの衣文〔図19〕が細部においてはいずれも光台寺像〔図5〕と一致し、東博像〔図18〕とは相違点が多々あることが判明する。だが東博像の銘文自体は現在のところ疑う必要は無く、同像は建長六年(1254)の造像として認めるべきであろう。従って、上記の同系統の遺例もその制作が建長六年を遡る可能性が高いといえよう。ここで問題となるのが、長野・八木虚空蔵堂の建治元年銘である。光台寺像に代表される、東博像に先行する遺例と同系統の衣褶である以上、八木虚空蔵堂像ら三躯の鉄仏の制作時期は東博像を遡るか、あるいは光台寺像らを降らせて考えねばならない。しかしこの点も、鋳造した仏像自体、つまり光台寺像と同様の衣文表現をとる鋳銅像自体を型として建治元年に模刻鋳造したと考えれば支障はないものと考える。これら三躯の鉄仏の原型となったのがどこの像であったかは知り得べくもないが、東博像ではないことだけは確実であるといえる。また、福島・大桂寺にはやはり同系統の善光寺式観音菩薩像が存在するが、この像が六稜の筒形宝冠をいただくことは示唆に富む。未だ実査は行っていないが、調査報告(注5)によると光台寺像脇侍と法量はほぼ一致しており、像容から判断しても光台寺像脇侍と同型の可能性は非常に高い。同像の拓本によると宝冠にはやはり区画線がないが、正面には化仏の線彫りを施すとされる。この像を光台寺像の次段階と見ると、東博像の位置が想定可能となる。つまり、本系統の善光寺式三尊は、第一段階として光台寺像のように脇侍が円筒宝冠かつ尊名の標識を持たない像としてつくられ、第二段階として、同じ型を用いながらも、当時すでに阿弥陀として定着していた善光寺仏信仰を反映して宝冠に線刻で標識をあらわし、第三段階として六稜の筒形から六角宝冠へと変更されたと考えることができるのではないか。無論現段階では推測にすぎないが、未だ不明といわざるを得ない六角(あるいは八角)宝冠の発生を理解する一助とはなろう。いずれにせよ、これまで善光寺式阿弥陀の研究史のうえで、元久三年(1206)の滋賀・善水寺像と宝治三年(1249)の埼玉・向徳寺像の間の40年以上ものブランクが障害の一つとなっていたが、光台寺像の系統がそこを埋める可能性が出てきたと言えるだろう。
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