―237―これは善神像の姿が未だ定まっておらず、製作に際して多くの部分が絵仏師達の創意に委ねられたためと考えられよう。遺品の多い釈迦十六善神像の全容を捉えるのは難しいが、近世のものまでを含めると現存する多く作品には、いくつかのパターン化した十六善神の姿が確認できる(注9)。この傾向が顕著になるのは室町時代の作品からで、法起寺本や野蔵神社本、樹下神社本などに見られる宋代仏画を元にしたかのような姿が複数の作品で認められる(注10)。これらでは十六善神に限らず、他の尊像も同じ姿で描かれることから、当時すでに定型化した釈迦十六善神図像が存在していることが分かる。これに対し聖衆来迎寺本系の十六善神を描く画像では未だ尊像構成や各像の姿が必ずしも定まっていない。玄奘を例にとれば執梵篋像を描く作品のほか、三重大樹寺本・兵庫今滝寺本のように行脚像を描くもの、岐阜龍門寺本・奈良金剛寺本のように合掌像を描くものの3種類が認められる。このことは、聖衆来迎寺本系の十六善神の成立の早さを想像させる。これに関しては幽玄齋氏A本〔図7〕や奈良大蔵寺本の存在が参考とされる。共に聖衆来迎寺本系の十六善神を描く作品で、幽玄齋氏A本は丸みのある釈迦の面相や彩色主体の表現から南都仏画と見られる13世紀末頃の作である。画面は釈迦如来・法涌常啼・十六善神から構成され、文殊・普賢と玄奘・深沙大将は描かれていない。また大蔵寺本は実見に及んでいないものの南北朝頃かと見られる南都風の作品で、幽玄齋る古様な尊像構成である。両本とも玄奘・深沙大将を伴わないことから鎌倉時代に両像を加えることが一般化する以前の図像を示している可能性が考えられよう。3 玄奘三蔵の図像聖衆来迎寺本の図像と南都との関わりが想定されるのは執梵篋像の玄奘によるが、改めて南都における玄奘の姿について確認しておきたい。記録の上では薬師寺西院正堂に玉華殿様と称するものがあったと知られる(注11)。また唐招提寺には玄奘と弟子衆が共に描かれたものが存在していたというが(注12)、両者とも玄奘がどのような姿であったかは知ることができない。遺品のうち興福寺や薬師寺、法隆寺に伝来する法相曼荼羅では梵篋を執る坐像としてあらわされる。また東京芸大の黒漆厨子扉絵や、貞慶が建立した笠置寺般若台の大般若経厨子を模したと考えられる興福寺護法善神像など厨子の扉絵としても同じ姿が立像で描かれる。さらに興福寺南円堂内部の板絵に描かれた祖師像の中に玄奘の画像があり、現在では像容氏A本に梵天・帝釈天に比定される団扇を持つ天部像と柄香炉を捧げる天部像が加わ
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