鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―238―を確認するのは難しいものの京博本を初めとする興福寺曼荼羅や興福寺黒漆舎利厨子の不空羂索観音の傍らに梵篋を持ち侍者を随える姿が認められることから同様の姿が板絵に描かれていたものと考えてよいであろう。以上の作例からも梵篋を執る玄奘は興福寺を中心とした南都における伝統的な姿と確認できる。釈迦十六善神中の執梵篋像は上記に共通する図像を示すが、南都の遺品の多くは遠山文様の袈裟を纏うのに対し、釈迦十六善神では図像の異なる西大寺本を除き赤色の袈裟を身に着けるという違いもある。聖衆来迎寺本と同図像の作品でも十六善神の身色や法涌菩薩の衣の色は必ずしも一致していないのに対し、袈裟の赤色は全てに共通する特徴となっている。赤色の袈裟を纏う玄奘を描く南都の作品としては藤田美術館蔵玄奘三蔵絵巻が挙げられよう。絵巻の中で玄奘は生涯にわたって赤色の袈裟を纏っており、取経の旅においても行脚姿ではない。絵巻の製作において南都の伝統的な梵篋を執る姿が意識されていることは第7巻のバラモンを論破する重要な場面にこれを登場させていることからも知り得るし(注13)、旅行中にわざわざブーツに履き替えるのも同じ意図があってのことであろう。絵巻の製作については大般若経を請来し正しい漢訳を果たした人物として玄奘三蔵を顕彰しようとした背景があると考えられている(注14)。大般若会の本尊となる釈迦十六善神像中に同色の袈裟を纏う玄奘を描くことには、絵巻に共通する背景が想定できるのではなかろうか。また大般若経と執梵篋像の関係として考慮とされるのは、天永元年(1110)3月6日の南円堂大般若会で(注15)、中世に恒例の法会となっていた事は「尋尊大僧正記」に頻出することからも知られる。南円堂には前述の通り板絵に執梵篋像の玄奘が描かれていたことから、大般若会の本尊画像の中に描くには相応しいとも考えられよう。結び以上の検討では、執梵篋の玄奘を描く釈迦十六善神の図像は製作年代の古い西大寺本を除き同じ図像を基本としていることが確認できた。またその図像の十六善神は玄奘と深沙大将が加わるのが一般化する以前に成立したものと推定した。林氏の指摘にもあるように、聖衆来迎寺本と同図像の十六善神像が東大寺蔵大般若経厨子に見られるほか、16体のうち前方4体が海住山寺本大般若十六善神像に共通するなど、南都の作例に共通する姿が見られることは留意される。本報告では図様の面からのみの考察に止まったが、今後は各作品の伝来から南都との関係を考察する必要があると考えられる。

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