鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―243―1 シュヴァリエ・アントワーヌ・ド・ラ・ロクとシャルダンシュヴァリエ・アントワーヌ・ド・ラ・ロクの生涯と人物像は、画商エドム=フランソワ・ジェルサンによって執筆された競売カタログ冒頭の伝記をはじめとした同時代資料、また近年のムローらの先行研究によって徐々に明らかとなってきている(注2)。ラ・ロクは、1672年にマルセイユの平貴族で中近東との交易も営む商人の家庭に生まれ、若い頃には国内外を旅行した。やがて、軍人となってファルツ戦争とスペイン継承戦争に参加したが、1709年、マルプラケの戦いで砲弾を脚に受けて重傷を負い、膝下の切断手術を余儀なくされた。退役の際には、ルイ14世から聖ルイ騎士勲章とともに恩給を受けている。かくして軍人としての経歴を断念した彼は、1713年頃に、考古学者・古銭学者であった兄ジャンとともにパリに移住して、オペラの台本を執筆するなど、芸術を愛好する文化人・蒐集家しての道を歩んでいく。正確な時期は不明であるが、画家アントワーヌ・ヴァトーと知り合ってそのパトロンとなったことは注目すべきことであり、その作品を少なくとも3点所蔵したほか、彼の手になる肖像画が2点残されている(注3)。〔図1〕の作品を見ると、軍人としてのキャリアと芸術の庇護者としての新たな活動の寓意が傍らの擬人像として表され、彼の人物像がまさに端的に表現されていると言えよう。やがて1721年には代表的月刊紙メルキュール・ド・フランス(以下、メルキュール紙と略)の仕事に携わり、1724年には主幹となって1744年のその死まで務めた。彼が携わり始めて以来、メルキュール紙は1721年の緒言(注4)にも明言された通り、科学、文芸、芸術に関する記事に大幅に紙面を割くようになり、それまでのファッションやゴシップの記事に象徴される「浅薄で卑しむべき」性格から、「同時代の人間の精神史を追究する者にとって不可欠な」新聞へと様変わりする(注5)。記事の多くは執筆者の同定が困難であるが、例えば1721年にはヴァトーの死亡記事をはじめとして少なくともいくつかがラ・ロクに同定されており、彼自身も美術関連の記事をしばしば執筆したと考えられている(注6)。一方、シャルダンに関してメルキュール紙は、1734年の青年画家展への出展以来、画家の晩年に至るまでサロン出展や作品の版画化のたびごとに、終始好意的な評と共に作品を紹介しその画業を追うことによって評価の確立に多大な貢献をしていることは明らかである(注7)。ラ・ロクのもう一つの重要な側面は、熱心な蒐集家としての活動である。そのコレクションは、同時代の人々の間で賞賛されており、生前から有名であったことがわかる。蒐集内容については、死後競売にかけられた際に、ジェルサンが作成したカタロ

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