鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
253/543

―245―たが、風俗画と風景画が各々11点、10点とやや多くなっている(注13)。以上の内容から、彼のコレクションは、流派ではネーデルラント絵画が多数を占め、主題の面では風俗画と風景画が全体のほぼ半数に及んで中核をなしたと判断できる。一方、現在同定されている作品は多くはない。筆者の調査の限りでは、今日も名高いレンブラント作品〔図5〕、ヴァトーの戦争画対作品〔図3、4〕、シャルダン作品〔図6−11〕がある。さらに、ストックホルム国立美術館所蔵の諸作品に、テニールス(子)、アドリアン・ファン・オスターデ、クラース・ベルヘム、シャルル・パローセルの作品がある(注14)。さて、よく知られているように、フランスでは18世紀後半にかけてネーデルラント絵画の流行が高まりを見せていく。1737年に開かれたヴェリュ伯爵夫人の豊かなコレクションの売り立てがその典型となると同時に、蒐集熱の刺激となったことは有名で、1740年代以降にはその人気が不動のものとなった。だが既に1727年に、デザリエ・ダルジャンヴィルが、まさにメルキュール紙上で「好事家蒐集室における選択と整頓についての手紙」と題して、ネーデルラント派への注目を喚起している(注15)。発行部数を伸ばし、王室の保護も受けるなど有力な新聞であった同紙に、こうした記事が掲載されるようになった背景には、従来の限られた階層にはとどまらない美術受容層の拡大が窺われる。美術愛好家でありまた同紙の主幹であったラ・ロクの地位を鑑みるならば、この新しい流行とメルキュール紙の方向性に、彼は決して無関係ではなかっただろう。17世紀ネーデルラント絵画、とりわけ世紀後半にかけ本格的に人気が高まることになるテニールス(子)やワウウェルマンスらの風俗画や風景画の流行をいち早く取り入れたと考えられるのである。さて、ラ・ロクが所有したシャルダンの作品は、風俗画7点、静物画3点の計10点を数えたが、彼が蒐集したフランス派の画家たちの中では、これほどまとまった数の作品が揃った画家はいない。それらは1730年代以降に制作されたものが中心となっており、既述のように最初期の風俗画のいくつかは、制作依頼されたことがわかっている。一方シャルダンにとっての1730年代とは、1728年に静物画家として王立絵画彫刻アカデミー会員となったものの、まもなく方向転換して主題・様式の点でしばしば前世紀のネーデルラント絵画に近親性を持つとされる風俗画を集中的に手がけ始めた時期にあたる。この転向に際しては、当時も支配的であった画題の位階の通念を背景として、友人の肖像画家ジョゼフ・アヴェドと人物画を描く困難さをめぐって議論した逸話が、よく知られている。加えて、王立アカデミー入会こそ果たしたものの、静物画

元のページ  ../index.html#253

このブックを見る