鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―249―同時代資料にその名が言及されることが少なく、いささか知名度の低い画家であった(注32)。当時シャルダンの風俗画作品の多くは、テニールス(子)やレンブラントの名を引き合いに出して賞賛された。しかし後世の研究者たちは、その多くの作品の実際の霊感源として、ハブリエル・メツーやネッチェルをはじめとする17世紀オランダの群小画家たちの作品を指摘する。当時、そうした画家たちの作品がパリで再び版画化されたり、他のフランス人画家たちによって追随されたり、或いはシャルダン作品と結びつけて批評されたりするようになるには、18世紀後半を待たねばならなかった。シャルダンは、既に知られていて人気のあったテニールス(子)らの作品に追随するよりもむしろ、幾分マイナーでまだ知名度の低い画家たちの作品に新たに眼を向けた可能性が示唆されるのではないだろうか。さてここで、《素描する若い学生》をさらに仔細に観察するならば、アカデミー教育を主題とする数多くの先例とは異なる新しい点がある。それは、画学生が、古代彫刻や裸体モデルではなく、素描を模写していることである。また、壁にかけられた手本素描自体の細部は描写されず曖昧であり、彫刻モデルが同定可能なほど克明に描写されることを常としてきた先行作例とはまったく対照的である。加えて、アトリエは簡素でモティーフに乏しく、学生の暗褐色の古びた上着の背中には穴が開き、椅子に座らず床に足を投げ出して背中を丸める様子からは、貧しさや荒んだ雰囲気さえ感じられるのである。手本素描を模写する行為は、当時アカデミーの教育課程の最も初歩段階に位置づけられていた。前世紀のスウェールツらの作品ではアカデミー教育及びその根幹をなす古典主義を肯定的に捉えているのに対し、この作品では管見の限りそれまで絵画化されることのなかった初歩的修業の様子が、みすぼらしい身なりの青年の姿で表現されており、ローザンベールが指摘したように単純なアカデミー教育賞揚の範疇には決して括りきれないものとなっている。シャルダンのこの対作品は、1738年のサロン出展後まもなく版画化されている。また、1757年にはヴァリアントもサロンに出展された(注33)。さらに、油彩画による自筆のコピー作品が数多く制作されて、しばしばローラン・カール、ピエール・ボスクリー、ミシェル=フランソワ・ダンドレ=バルドン、ジャン=バティスト・ルモワーヌ、ジャック=オーギュスタン・ド・シルヴェストルといった芸術家たちによる所蔵が散見される。当時の芸術家たちが、アカデミー教育に対する疑問も聞かれるようになった時代を背景として、自虐的とさえ言える画家修業の場面に自らの姿を重ね合わせていたと推測する余地はあるだろう。シャルダンの描いた画家修業をする青年像は、その後「この主題がフランスで流行する火付け役」(注34)となり、素描模写そ

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