;日本中世・近世の「子どもの肖像画」研究―257―研 究 者:武蔵大学 非常勤講師 斉 藤 研 一1、はじめに本調査研究は、これまで肖像画研究の周縁的な位置付けにあった「子どもの肖像画」について、網羅的な所在情報の確認と、今後の研究に必要な基礎的データの収集を行うとともに、肖像画全体における「子どもの肖像画」の位置付けについて考察するものである(注1)。本調査研究の結果得られた「子どもの肖像画」一覧が、〔表1〕である。本報告書では、紙幅の都合上、遺憾ながら詳細な比較分析表は掲載し得ない。そこで、図版掲載文献を提示することで便宜をはかった。作品の選択にあたっては、あえて「子ども」を厳密には定義せず、男子の場合は前髪を残していれば採用するなど、できるだけ広く採る方向で適宜判断した。また、やはり紙幅の都合上、「稚児大師像」や「子どもの肖像彫刻」、絵系図に描かれた子ども像のデータについても、掲載を省略した。2、宗龍寺蔵「十仏像」「十仏像」は、佐賀二代藩主鍋島光茂と側室「お振(お婦里)」(霊寿院)との間に生まれた子どものうち、夭折した十人の子どもの肖像画である(注2)〔表2〕。十人の子どもたちは、いずれも向かって左を向いて畳の上に座るか、這い這いをしている。画面上部には、中央に戒名が、その左脇に、やや小さな字で名前が墨書される。軸を含め、そのほかに文字記載はない。八歳で死んだ「お金」は、髪を後頭部で結って垂らし、肩上げした小袖姿で、片立膝をして座る。黒地の小袖には、鹿子絞であしらった将棋の駒紋様に、それぞれ金色で「金将」「飛車」などの文字が記される。六歳で死んだ「左内」〔図1〕は、前髪を残して髷を結い、肩衣長袴姿で正座し、やや開かれた扇を手にして、腰刀を差す。肩衣は、肩先に襞が取られ、太細二筋の子持ち筋が通り、杏葉紋とともに鶴亀松竹紋様が散らされる。淡い黄色地の小袖には紅白梅の折枝が描かれており、合わせて吉祥尽くしの紋様となっている。「お金」と「左内」を除いて、他の子どもたちは、いずれも蓬髪の小袖姿である。小袖は付紐と思われるが、はっきりしない。「お金」と「左内」を除くと、座っている子どもは、いずれも右足をやや立て気味に、足先を交差せずに胡坐に近い座り方をする。特異と思われるのは、「亀千代」、
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