鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―259―する子ども像が、像主がほかならぬ子どもであるとはいえ、その規範を打破していることの意味は大きいのではないだろうか(注4)。このポーズですぐに想起されるのは、御所人形などに見られる這い子(這々人形)である。子どもの造形表現として、イメージと人形とを結び付ける接点の一つとしても注目しておきたい。では、この「十仏像」の制作はいつであろうか。宮島新一氏も推測されるように(注5)、元禄11年(1698)7月23日という日付が注目される。光茂は、天和2年(1682)7月22日に、かつて「左内」が死去した折に菩提を弔うために建立した善応庵に対して、「御早世御子様方御追善」のために法華一万部の執行を命じている(注6)。翌日に「辰丸」が二歳で逝去していることをふまえると、すでに「お振」(霊寿院)との間に生まれた子ども九人のうち、養女に出した子どもを含めて七人を失っていた光茂にとって、「辰丸」の健康状態の悪化が、夭折した子どもたちに対する追善供養の直接の動機になったとも想像できる。そして元禄11年7月23日に結願、「万部ノ石塔」を建立したとある。つまり、「辰丸」の十七回忌の命日である。「十仏像」は、この結願に合わせて制作されたのではないだろうか。「乙女」の畳の描写が、他幅とやや異なる点が気になるが(注7)、図様から判断して、「十仏像」は、ほぼ同時期に同じ絵師(あるいは工房)のもとで制作されたものと考えられる。当初、この「十仏像」は、宗龍寺末寺の円福時に納められ、供養されていたことが知られる。天明9年(1789)に宗龍寺より藩に提出された『御触達書上帳』(注8)の「御免許宗龍寺末寺」には、光茂が「御子様方十仏様御影」を円福寺に寄付し、後には光茂の位牌とともに供養されたとある。十八世紀末以降、時期は定かでないが、円福寺は廃寺となり、宗龍寺に併合されている。この時に「十仏像」も宗龍寺に伝来したものと思われる。また、光茂は、宗龍寺に「十仏様」のために阿弥陀堂を建立し、阿弥陀如来像のほか、子どもたちの位牌の供養を宗龍寺第十一世・天海に命じたともある(注9)。ちなみに天海は、円福寺の開山である。光茂の死後になるが、元禄13年(1700)8月に「お金」の二十五回忌法要が、元禄16年(1703)6月には「乙女」の七回忌法要が、いずれも鍋島家の菩提寺である高伝寺で執り行われていることが確認できる(『綱茂公御年譜』)。おそらく他の子どもたちについても、各年忌法要が営まれていたことは間違いないだろう。現在、十人の子どもたちの墓は、いずれも高伝寺にある。龍造寺・鍋島両家歴代諸侯の墓所の北側に隣接した別域である。高伝寺では、この墓域を「お子様霊屋」と称しているように、鍋島家ゆかりの子女を中心に、藩祖直茂の父清房・祖父清久など、

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