鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―260―五十基弱の墓石が祀られている。ただし高伝寺では、子女の墓石については、誰の墓石が存在するのか把握していないとのお話であった。「十仏像」の十人については、現地でその墓石の存在を確認してきた。また、本堂の北側には、大小様々な鍋島家の位牌二〇二霊が安置された「お位牌堂」があり、子女の位牌も多数含まれているとのことだが、やはり個々の把握はなされておらず、「十仏像」の子どもたちの位牌の存在は未確認である。3、尼門跡寺院所蔵の「子どもの肖像画」①大聖寺蔵「龍登院宮像」龍登院宮は、大聖寺第十六世。後陽成天皇の皇女で、慶長4年(1599)6月に八歳で大聖寺に入寺したが、翌年十月に逝去した(注10)。原本調査は叶わなかったが、中世日本研究所から提供していただいた写真によって画面を観察した。「龍登院宮像」〔図4〕は、額の銀杏の葉の形をした前髪が印象的な、得度受戒する前の喝食姿で描かれている。像主は、向かって左向きに、高麗縁の畳に正座する。下から灰色っぽい無地、赤の無地、赤の筋文様の下着を重ね、白地に入子菱模様の小袖を着る。打掛は剥落が激しくてはっきりしないが、黄色地に金色の立湧のような紋と、同じく金色の円文が散らされた縫箔の肩裾小袖であろうか。円文の中には、葵、三つ巴、六曜など多様な紋様が見られる。左手は左足の上にのせ、右手は胸の前で花の折枝を持つ。花の種類は、不明。画面上部には陀羅尼が記されるが、別紙を継いでいるようだ。顔の表現に個性はないが、目が比較的大きく描かれているからであろうか、幼い少女の面影を見て取ることができる。華麗な衣装を身にまとった、慶長期に多く描かれた典型的な女性肖像画の形式に準じている。これまでも、花の折枝を手にした子どもの肖像画は注目されてきたが、ここに新たな一例を加えることになった(注11)。稚児や喝食にとって、立花の嗜みは教養の一つであった。やや時代は遡るが、『看聞日記』応永32年(1425)閏6月22日条には、「入江殿御喝食、明日草花被立云々、草花有所望方々取集進之、東御方一献分代、菰等被進、喝食初而草花被立為祝着被進」とあり、三時知恩寺(入江殿)の喝食についての記事が見られる。龍登院宮もまた、幼くして立花を習ったのであろうか。②大聖寺蔵「玉鑑永潤像」玉鑑永潤(倫宮、普明浄院)は、大聖寺第二十四世。光格天皇の皇女で、大聖寺に入寺した最後の皇女である。文政9年(1826)9月に七歳で入寺・得度し、天保元年(1830)5月に十一歳で逝去した(注12)。「玉鑑永潤像」は、剃髪した幼い子どもが、袈裟を着け、向かって左向きに、法衣を掛けた曲Gに座って描かれている。白二領の下着、赤色の間着を着て、その上に菊

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