―261―紋があしらわれた紫地の法衣を着る。袈裟は白地。曲Gの前の踏床には、靴が置かれており、典型的な頂相形式の肖像画と言えよう。面貌からは、あどけない子どもの雰囲気が十分に伝わってくる。両手は、手のひらを上に向けて、足の上に重ねて置く。画面上部には、玉鑑永潤の得度の戒師を務めた相国寺一二〇世・盈冲周整の賛が書かれている。③東京大学史料編纂所蔵「近衛家熈女画像(喝食画像)」東京大学史料編纂所所蔵の肖像画模本の中に、「近衛家熈画像」と「近衛家熈女画像(喝食画像)」がある(注13)。ともに明治41年4月に、三時知恩寺所蔵本を模写したものである。三時知恩寺所蔵の原本「近衛家熈像」は、近世公家肖像画の秀作としてよく知られているが(注14)、管見の限り、家熈の娘の肖像画の存在について言及した文献を知らない。また、現時点では、「近衛家熈女画像」の原本が三時知恩寺に所蔵されているか確認できていない。模本「近衛家熈女画像」を見てみよう。像主は、畳の上に茵を敷き、その上に向かって左向きに正座する。髪は、額髪を中央から分けて顔の左右に短く垂らすほかは、後頭部に向かって畝筋をつくるように長く垂らす。頬はうっすらと赤く彩色され、幼い少女の雰囲気を醸し出している。成人した大人の女性という面影はない。白二領の下着に赤地の小袖を重ね、無紋の紫色の袴に着込め、紫色と赤色で縁取られた萌葱地に松菱紋の袿を重ねる。腰の前に両手を添えるが、手先は袖の内に隠れて見えない。正面の茵の上に、中啓が置かれる。茵は繧繝縁で、角の部分から茎を伸ばし、赤・緑・紫色の葉を付けた草の模様が、足元に覗いている(注15)。「近衛家熈女」とは、いったい誰であろうか。「喝食」姿の遺像と仮定すれば、つまり、家熈の娘で、入寺したものの得度することなく夭折した子どもが想定されるが、該当する子女は見当たらない(注16)。では、模本の「喝食画像」という記載は正しいのであろうか。装束はもちろんのこと、両手を袖のうちに隠して描かない点など、この像主の表現は、近世公家の女性肖像画の形式に準じている。「喝食」という条件を外すならば、家熈には、元禄16年(1703)に徳川家宣の養女になるものの、翌年に六歳で夭折した政姫という娘がいる。三時知恩寺蔵「近衛家熈像」は、三時知恩寺の門跡であった家熈の娘・尊融が、家熈の四十九日(元文元年(1736)11月22日)にあたって描かせたことが画賛によって知られる。奇しくも、政姫の三十三回忌の年である。尊融が、父家熈の御影とともに、夭折した姉政姫の肖像画も一緒に描かせたと考えるのは無理があろうか。近衛家からは、法華寺や三時知恩寺に多くの子女が門跡として入寺している。像主
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