注影山純夫「慈愛と追慕 童子肖像画について」(『古美術』86号、1988年)と、宮島新一「子供の画像」(『肖像画の視線』吉川弘文館、1996年)が、広く「子どもの肖像画」について言及しており、必須の基本文献である。 光茂の子どもたちの死亡記事については、光茂の年譜『寛元事記』『光茂公譜考補地取』よりも、むしろ「十仏像」の子どもたちにとっては兄にあたる綱茂の年譜『綱茂公御年譜』に詳しい。いずれも『佐賀県近世史料』第一編第三巻(佐賀県立図書館、1995年)所収。大園隆二郎「鍋島宗茂と山本常朝」(『葉隠研究』24号、1994年)も参照。■細川融姫は、熊本十代藩主細川斉茲の娘。「細川融姫像」は、斉茲の自筆で、後ろ向きに座る■田村憲美「中世肖像画における「座」の問題」(黒田日出男編『肖像画を読む』角川書店、■前掲注宮島論文。■『寛元事記』『光茂公譜考補地取』天和2年7月22日条。■「乙女」の畳は、他幅と比較してやや厚く、幅(奥行き)も広い。また、縁の模様が、他幅のそれが多様である中にあって、「お茂」の畳の縁と、図様・色彩が大変近似する。「十仏像」制作の発起がいつであったかが問題になるが、「乙女」の死が結願日の約一年前であることをふまえると、当初は「乙女」を除いた「九仏像」の構想であったかもしれない。■山田純房『佐賀宗龍禅寺史』(金剛山宗龍禅寺、1983年)に一部が翻刻される。『御触達書上帳』。ただし、そこに記される「十仏様」のうち三名の戒名が誤っている点につ『尼門跡寺院の秘寶』(中世日本研究所、1998年)。菅原正子・久保貴子「尼門跡表」(服藤早苗花については、像主の名前や死亡した季節との関連、菊慈童との関わり、「はかない生命」の象徴といった指摘があるが、その一方で、例えば花の折枝を持った成人女性像の例を知らない(傍らに花を生けた花瓶を置く例はある)。つまり、像主が花の折枝を持つというのは、子どもの肖像画に固有の描写なのである。子どもが花の折枝を持つことには、何か宗教的(民俗儀礼的)な意味もあるのではないかと考える。前掲注に同じ。東京大学史料編纂所ホームページ「所蔵史料目録データベース」から画像を見ることができ三時知恩寺本と同図様の陽明文庫所蔵本もある。この茵の紋様は、泉涌寺に伝わる近世の歴代天皇像のうち、複数の例(「桜町天皇像」「光格天歴代の尼門跡については、大塚実忠編「史料紹介比丘尼御所歴代(一)〜(五)」(『日本仏教』前掲注影山論文。―263―1998年)。26〜32号、1966〜70年)を参照した。融姫を描いたスケッチ風の肖像画である。いては、不詳。ほか『歴史のなかの皇女たち』小学館、2002年)も参照した。る。皇像」など)に描かれる茵の紋様とほぼ同じである。
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