鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―271―「コラージュ作品」と見なされてこなかったことも首肯できよう。なぜなら、以上のようなプロセスを経て制作されたとされるコラージュ作品と《Vox Angelica》には、以下の二点において重要な差異があるからである。それは第一に、エルンストのコラージュが本質的に「結合」を志向するものであるのに対し、《Vox Angelica》はグリッドによる視覚的「分離」の作用があまりにも顕著であるということ。そして第二に、エルンストのコラージュ作品が、おもに既成の図版のイメージという、オブジェクティブな素材を再配列するのに対し、《Vox Angelica》は自身の筆による、自己言及的なイメージという、いわばサブジェクティブな要素を取り扱っているということである。しかしこれらの差異は、《Vox Angelica》の中でのグリッドの働きをみれば、コラージュの手法との連続性のなかで考察することができる。確かに《Vox Angelica》は、イメージ同士の境界を透明にしてしまうことはない。だが、カタログや一覧表のように並置され、あくまで断片を断片として提示される分割された多様なイメージは、グリッドによって、相隔たるイメージや観念同士をひそかに左右しているような見えざる関係性の発見や、類似や連想とともに分析、あるいはコラージュされるように導かれていく。このことは、先述のように、ゴッドリーブが1944年に「ピクトグラフ・シリーズ」の作品について、各区画に独立して並置されたイメージが「終に観る者の心のうちに融合する」と述べていることを想起させるだろう。以上のように、コラージュの主体を観る者のうちに置くことで、第二の差異もコラージュの問題圏に含まれることになる。モティーフ同士の境界が透明化されることが、エルンストにとってコラージュ的「結合」のヴィジョンに不可避であったことは先述の通りであるが、そのさきにあるイメージは、受動的なかたちでもたらされたものとはいえ、ある主体(ここではエルンスト)の欲望のヴィジョンである。それがいかに主観のさきにある客観を垣間見せようとも、観る者自身がその「結合」に立ち会えるわけではなかった。それに対して《Vox Angelica》では、エルンストという画家に帰せられる多様なイメージが一覧に供され、並置されることによって、画家のイメージのコレクションが、まさにカタログのように展示されている。エルンスト自身のイメージの寄せ集めを同一平面上に並置し、グリッドによって見えざる関係性の発見や、多様なイメージのコラージュへと誘われることによって、エルンストがまさにコラージュの「発見」において体験した出来事そのものが提示されていることに気付かされるのである。以上のように、《Vox Angelica》のグリッドは、それまでのエルンストの画業からの逸脱ではなく、エルンストのコラージュの興味深い再考であるとみなすことができ

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