―272―る。それは、「体系的コラージュ」への関心であると同時に、分割されたイメージが観る者のなかで結合されるような提示の仕方であった。このような点においても、グリッドという視覚的形式の広がりが垣間見えるのではないだろうか。しかしながら、《Vox Angelica》がコラージュに関わるエルンストの画業の延長線上にのみ位置付けられると考えるのは早計だろう。そこで、《Vox Angelica》の「窓枠」としてのグリッドの側面に言及しておきたい。この時期、エルンストはグリッドを「窓枠」として再現的に描く作品をいくつか制作しており、そうした作例との関連から、《Vox Angelica》のグリッドには象徴的「窓枠」としての一面が含意されていると思われる。ただし、はじめは明確に「窓枠」を表象していたグリッドも、1943年の《Vox Angelica》ではイメージがより多元的になっていることにも注目すべきである。つまり、色面の配置や幾何学的抽象のイメージによって、画面が平面性をも示しているのである。このような描き方によって、《Vox Angelica》を語る際の常套句として、モンドリアンの一連の作品が言及されてきた。それは、ゴットリーブの場合も同様である。もちろん、エルンスト自身もそのように語られることを決して否定していない。むしろ、積極的に受け入れていたと言えるだろう。というのも、すでに44年には、さきに触れたシドニー・ジャニスの著作でモンドリアンの画面構成との類縁が指摘されているのだが、それを後年エルンスト自身が自らの著作に引用しているからである(注8)。このことは、ロバート・マザウェルが後に述懐するように、この時期のエルンストが40年代初頭の絵画における抽象の波をどこかで意識せざるを得なかったことを示していると言えるだろう。むすびにかえて以上のように、40年代初頭に印象的にあらわれた《Vox Angelica》と「ピクトグラフ・シリーズ」のいくつかの作例におけるグリッドは、ニューヨークの美術界という局所的な場でかつてないほど議論され、相互に作用していたシュルレアリスムと抽象、あるいはモダニズムの混在を証言している。それは、各々の立場や理念によって、抑圧されるもの(背景に退くもの)と前面にあらわれるものが異なり、また言説のうえでもそうした事態が生じている。ロザリンド・クラウスは、モダニズムのグリッドがそれ自体、極めて両義的であることを指摘したが、本稿で考察したゴッドリーブとエルンストのグリッドも、イメージ同士の「神秘的体系」と抽象的絵画表現の間を揺れ動きつつ、それらを支える機能を両義的に内包している。こうしたグリッドのあり方は、「シュルレアリスム」と「抽象」という二項対立ではなく、より広い観点からこ
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