とり違えられた肖像―274――足利義持の肖像制作と天空の地蔵菩薩―研 究 者:明治学院大学 非常勤講師 黒 田 智1、とり違えられた親子文久3年(1863)2月、勤王の嵐ふきあれる京都三条河原に3つの首がさらされた。室町幕府初代将軍足利尊氏、2代義詮、3代義満は、「鎌倉以来の三賊巨魁」として天誅を下された。何者かが等持院に忍び込み、ひそかに寺内に安置されていた木像の首3体を持ち出して獄門にさらしたという(『官武通紀』)。しかし、このときさらされた足利義満の木像は、実は4代足利義持の首〔図1〕であったと思われる。江戸後期以来ごく最近にいたるまで、2人の肖像はしばしばとり違えられてきたからである。こうした混乱は、寛政12年(1800)の松平定信『集古十種』にまでさかのぼる。同書でも等持院木像はとり違えて模写され、『鹿苑院殿八幡参詣図』なる絵画は、実際には鹿苑院義満ではなく、勝定院義持の六条八幡参詣を描いた画巻であった。さらに、神護寺所蔵「足利義持像」(〔図2〕以下、神護寺本と略す)は、当時もっともよく知られた「足利義満像」として掲載されている。なぜとり違えられたのだろうか。とり違えを起こした2つの肖像画をとり上げ、なぞに迫ってみることにしたい。これにより、今では忘れられた足利義持の肖像制作を明らかにすることができるであろう。2、神護寺所蔵「足利義持像」大紋高麗縁の上畳に、左向きの直衣姿の俗人が描かれている〔図2〕。垂纓の冠をかぶり、白袍に立涌文様の指貫を着用し、袖口や襟や裾から赤い下着がのぞく。素足を組み、袖に隠れた両手を腰前にそえている。八の字型の眉と眉間のしわの下には三重瞼の目をもつ〔図3〕。頬と顎のラインは丸みをおび、頬の内側には法令が刻み込まれ、唇はほぼ一文字に結ばれている。揉上と頬髯はつながって長く伸び、口髭や下髭や顎鬚、さらに左右の喉元からも黒く豊かな髭が生えている。髭の形状と眉間のしわ、丸みのある輪郭線、でっぷりとした体格など、先述の等持院木像〔図1〕と肖似性をもっていることがわかる。上部の賛から、「応永廿一年(1414)」に「征夷大将軍従一位行内大臣」の職にあった生前の足利義持を描いたものであることは疑いない。しかし、寺伝では「足利義満
元のページ ../index.html#282