鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―275―像」として伝えられてきた。とり違えはいつ起きたのだろうか。〔表1〕にみるように、史料上に登場する足利義持像は多くはない。それでも、その原本を中世にまでさかのぼりうる2つの寿像が現在まで伝えられた。神護寺本と天龍寺慈済院本(〔図4〕以下、慈済院本と略す)である。慈済院本と比較しながら、神護寺本の肖像誌をたどってみることにしよう。神護寺本は、応永21年(1414)9月6日に怡雲寂?によって著賛され、当時幕府絵所となっていた土佐行広の筆になる。この年5月に足利義満の七回忌法会がいとなまれ、10月には等持院で足利義持の逆修供養が行なわれている〔年表〕。神護寺本は、この逆修供養会に際して掲揚されたものと推測される。他方、慈済院本は神護寺本よりも2年早い応永19年(1412)12月に元天龍寺住持であった履中元礼によって著賛されている。賛文から、この年8月の称光天皇践祚にともなう義持の「阿衡」=執政就任を記念して制作されたと考えられている。2つの義持寿像は、いずれも義持自身の政治的画期に制作されていたことになる。ただし、慈済院本には描きくずれや誤字が見受けられ、近世以降の模写である可能性が高い。それでも賛文の内容には整合性があり、かつて慈済院本の原本が存在した可能性は否定されないだろう。箱書によればもともと天龍寺招慶院にあったとされ、現在も慈済院本堂には「勝定院殿贈大相国一品顕山詮公大禅定門」の位牌が伝えられる。享保14年(1729)の『天龍寺並塔頭末寺什物』(『鹿王院文書』)に「一、勝定院義持公像 天龍礼履仲讃 壱幅」とあることから、18世紀初頭には「足利義持像」として厳存したことは疑いない。とはいえ、世に知られることなく寺内に秘蔵されていたようで、まったく史料をたどることができない。対照的に、神護寺本は「足利義満像」として18世紀後半以降に大量の模写が行なわれていた。この時期に神護寺で毎年催された虫払いや天明5年(1785)の勧化などによって、神護寺本が全国的な知名度を獲得していったためと推測される。たとえば、浅草文庫には応永13年(1406)5月6日怡雲賛の「足利義満像」があり、阿波公方平島氏が重代相伝していたものという(『考古画譜』)。また近藤重蔵関係資料(東大史料編纂所所蔵)、江戸湯島円満寺(『倭錦』『考古画譜』)、『集古十種』(寛政12年1800)、『梅園奇賞』(文政11年1829)に模写が残り、『寺社宝物展閲目録』や『道の幸』、『本朝画図品目』などにも紹介がある。さらに現在、東京国立博物館には板橋貫雄(慶応4年1868)、 遠藤景周(明治7年1874)、■松尾文友(明治7年1874)ほか6点の模写本が所蔵されている。■明治22年(1889)の『国華』150号は、「世に伝へて足利義満の画像と称するもの少なきにあらず、されど本号に掲

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