鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―276―げたる所の寿像の如く、世に知られたるはなからん」と紹介している。神護寺本を「足利義満像」としたもっとも古い史料は、『神護寺霊宝目録』である。同書は、これまで慶応大学所蔵本により明暦2年(1656)書写とされてきたが、今回の内閣文庫本の調査によりその原本が少なくとも寛永15年(1638)までさかのぼることが判明した。なぜこのとき像主名が変更されたのかを明らかにするのは難しい。ここでは、とり違えをもたらした背景を指摘するにとどめたい。ひとつは、足利義満と義持の歴史的イメージが後世になって大きく明暗を分けた点である。世嗣義量が早世した後、義持には子がなかったため、くじ引きにより弟の義教が後継将軍に就任した。以後、室町幕府将軍職は義教の子孫に引き継がれることになり、義持は嫡流からはずれてゆく。傍系となった足利義持の知名度はしだいに薄れていったと考えられる。たとえば、近世地誌をみても、東福寺に義持の画技が伝えられるだけで、神護寺や天龍寺のなかで言及されることはない。逆に足利義満は、幕府政治の礎を築き、北山金閣に独自の文化を花開かせた人物として、15世紀後半以降、人々の憧憬の的となっていった。江戸期に入っても天龍寺や相国寺で忌日法会が続けられ、武仙図や浮世絵の主題としてとり上げられるなど、その名は広く一般に知れわたっていたと思われる。もうひとつは、神護寺の退転と再興の歴史である。南北朝内乱以来、神護寺では北朝を支持する衆徒と南朝を支持する寺僧との対立が表面化しつつあった。応永2年(1395)の錯乱をへて、同23年(1416)の宝珠院炎上や交衆追放など、内部分裂が激化した。加えて、文明・天文年間の相次ぐ戦禍によって壊滅的な焼失を余儀なくされた。長い荒廃からようやく復興をとげるのは、天正年間(1573〜92)の晋海による勧進を待たなくてはならない。法身院僧正晋海は清原氏に生まれ、祖父は室町期随一の学者清原宣賢、大叔父は吉田神道の創始者兼右にあたる。晋海没後、神護寺を管掌したのは晋海の甥の性院であった。また承応2年(1653)の奥書をもつ『高雄山神護寺縁起』の作者伏原賢忠は、晋海の兄国賢の孫にあたる。近世初頭の神護寺復興は、この清原氏を中心とする人的ネットワークによってなされたといっていい。『神護寺霊宝目録』が作成された寛永15年(1638)は、天正年間の晋海や元和年間の龍厳による勧進活動が成果を上げて、神護寺再興事業が一応の完成をみた時期に相当する。神護寺本の像主名の変更は、このさなかになされた。代々碩学を輩出し、天皇の侍講をつとめた清原氏は、「足利義持像」の像主名をより知名度の高い義満へ変更することで、神護寺の再興とその後の経営を有利に進めようとしたのではないか。

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