―277―(〔図5〕以下、春日本と略す)。3、東京大学史料編纂所所蔵「足利義満・大中臣師盛像」画面上部に地蔵菩薩の白描画が布置されている。中央の法体像と下部の俗人像は、互いに向かい合う対角線状に配置され、背後にそれぞれの像主名が注記されている「勝定院殿」と注記された画面中段の法体像は、大紋高麗縁の上畳に右向きで胡座する。白と薄墨色の下着を重ね、白の素絹を着用し、薄朽葉色に金襴縁の掛絡袈裟を首から懸ける。右手は皆彫骨扇をささげもち、左手は腰前で念珠を握る。頭部は剃髪し、胸まで伸びる長い白髪と八の字型の眉をもち、二重瞼で、口はややへの字に結ばれている〔図6〕。小鼻から頬の内側にそって法令があらわされ、下顎には二重顎の表現がある。その面貌を鹿苑寺所蔵「足利義満像」〔図7〕と比べると、長い白髪や卵形の輪郭など、共通する特徴をもっていることがわかる。春日本は、もともと義満像であった肖像画がのちに「勝定院殿(足利義持)」としてとり違えられた肖像画なのである。「春日神主正三位刑部卿大中臣朝臣師盛」と注記された画面下段の俗人は、小紋高麗縁の上畳に左向きに胡座する。瞼が厚く、顎まで伸びた口髭、下髭と長い顎鬚を生やし、頬の内側には法令があらわされている。立烏帽子をかぶり、白の肌着に萌葱色の下着を重ね、松文様を散らした浅葱色の直垂を着す。右手は皆彫骨扇を傾けて握り、袖口からのぞいた左拳を腰前で構える。この絵は、東京大学史料編纂所が購入した模写本によって知られるのみで、原本は行方不明である。『集古十種』に「足利義持像」として模写されているものの、やはり所蔵者は不明とされている。とはいえ、幸いにも『経尋記』大永3年(1523)6月22日条に、西師順なる者が興福寺大乗院経尋に対して画幅に像主名の注記を依頼している記事があり、メモ書きされた像主名が春日本の現状と完全に一致する。このときすでに像主名はとり違えられていたことになる。また同条から、原本が春日社司西家に伝来していたことも判明する。西家は、鎌倉末期に分立した春日神主大中臣家の一流で、室町・江戸期を通じて『春日権現験記絵』の出納実務を担当するなど、京都との太いパイプをもっていたらしい。大中臣師盛は、西師順から4代さかのぼり、応永7年(1400)から同31年(1424)まで春日社正神主の地位にあった。足利義満・義持の春日参詣では必ず先達をつとめ、両将軍との関係はきわめて深い〔年表〕。特に義満は、春日社の造替や正遷宮、みずからの出家・受戒のために9度の南都下向をはたしており、そのたびに師盛が接待にあたっていた。その功もあってか、応永6年(1399)には従三位、同10年(1403)に
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