鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―278―は朝廷内での反対を押し切るかたちで異例の昇殿を許可されている。その後も、足利義持の春日参詣で先達をつとめ、応永24年(1417)に刑部卿に任官するなど、その死にいたるまで隠然たる力を保ち続けた。春日本はいつ制作されたのだろうか。その手がかりは顔貌表現のちがいにある。師盛の右頬にはシミのような淡墨の跡を確認でき、上目に朱を薄く彩色するなど、細部にまで精緻なこだわりをみせている〔図8〕。これに対して、足利義満の面貌は線描が単調で、彩色も簡素な表現にとどまっている〔図6〕。こうした表現のちがいは、像主を眼前に写照された師盛像に対して、義満像は死後に既存の紙形から模写されたためと考えられる。つまり、春日本の制作時期は、義満が死去した応永15年(1408)から師盛が死去した応永31年(1424)までの間に限定されることになる。この推測は、他の義満像を検討することによって傍証できる。第1に、自身の寿像を作らせた義持とは対照的に、義満像には死後に制作された遺像しか存在しない。表2によれば、義満像は史料上では1420年代と80年代に集中して登場することがわかる。このうち1420年代前後に義満の遺像を発注もしくは制作を許可できたのは、嫡男で将軍の地位にあった義持をおいてほかにあるまい。実際、義持は応永15年(1408)に相国寺鹿苑院の義満像に著賛し、同17年(1410)にも同勝定院に父の肖像を安置している。また高岸輝氏によれば、応永21年(1414)の義満七回忌追善に際して清涼寺所蔵『融通念仏縁起絵巻』の制作を命じていた。第2に、義満像の賛者や請者や所持者に注目してみよう。実は〔表2〕にみえる守護大名や禅僧たちは、義満よりもむしろ義持と親密な関係にあったことがわかる。たとえば、大内盛見は応永12年(1405)ころに上洛をはたして以来、義持の親衛軍として駐屯していた。また宿老の山名時煕や管領の細川満元も、義持政権を支える重鎮であった。愚中周及は義持に『金剛経』を講じて紫衣を授与されているし、惟肖得厳は義持の招きで相国寺に迎えられている。足利義満像の多くは、義満死後に足利義持によって発注され、親義持派の守護大名や寺社、僧侶たちに与えられたものであったと考えられる。それは、禅僧の師資間で行なわれていた頂相の授受にならったものかもしれない。足利義持は、みずからの寿像とともに父義満の遺像を制作・下賜することで、後継者としての地位を確固たるものとして、政権の正当化・安定化をはかろうとする政治構想をもっていたのではないか。加えて、現存する義満像と義持像を比較してみると、両像は明らかな相違点をもっていることに気づく。たとえば第3に、義満像は法体像であるのに対して、義持像は

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