―279―俗体像である。『満済准后日記』応永35年(1428)正月24日条によれば、義持はそれまで俗体であった等持院の義満木像を先例を破って法体に改めさせたという。前将軍である義満を法体とすることで、俗体の義持こそが現役の将軍であることを強調しようとしたのではないか。あるいは第4に、ともに中国皇帝のような豊かな髭をもつものの、義満像は白髪で、義持像は黒髪である。これも老いた義満と、若々しくそれでいて威風堂々とした義持とを対比させることで、為政者としての義持の権威付けをはかったと推測される。以上のように、足利義満像がその死後に足利義持によって下賜されたのだとすれば、春日本の制作時期は応永24年(1417)前後にしぼられるだろう。応永23年(1416)9月11日、義持ははじめて春日社に参詣をはたした〔年表〕。2年前に大病を患い、生母の死にみまわれるなどして信仰生活へ傾倒しつつあった義持は、夢想により東大寺大仏の彩色修理を命じていた。この春日参詣の先達をつとめたのが、79歳になった春日社神主大中臣師盛であった。翌24年(1417)8月、義持は荘厳なった大仏を参観するために南都を再訪し、翌月にはその功により師盛を刑部卿に任じている。足利義持が師盛に義満像を下賜したとすれば、このタイミングをおいてほかにあるまい。4、天空の地蔵菩薩神護寺本は足利義持像なのに足利義満像として伝えられ、春日本は義満像なのに義持像として伝えられた。このとり違えは、義満像と義持像がともに足利義持によって発注されたことに起因すると考えられる。しかも、義持によって制作された2つの肖像画は、ともに天空の地蔵菩薩を描き込むというきわめて特異な特徴を共有してもいるのである。春日本の画面上部には、左上方から右下方へ雲に乗って飛来する白描の地蔵菩薩像が左向きに描かれている。こうした来迎する地蔵像は、春日三宮の本地をあらわしている。春日地蔵は、鎌倉前期に貞慶らによって春日信仰と浄土思想とが結びつけられて以降、南都を中心に数多く制作されてきた。しかし、仏画(地蔵)と俗体(大中臣師盛)・法体(足利義満)の肖像を一幅のなかに描き込むのは、同時代の肖像画からみてきわめて特異な構図だといえるだろう。ちなみに、『大乗院寺社雑事記』文明16年(1484)11月5日条によれば、興福寺仏地院には足利義満像と孝俊像と陸信忠筆地蔵像が本尊として安置され、義満追善仏事が営まれていた。仏地院孝俊は、応永21年(1414)に興福寺別当となり、義持の春日参詣では師盛とともに先達をつとめた。この仏地院の義満像もまた、春日本とよく似
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