鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―280―「日本は日光地蔵の本国であり、月光・星光地蔵の威徳によって成り立つ」。また「異た経緯をたどって制作されたと考えられる。他方、神護寺本の画面上部には、小さな円相が朱色でふちどりされている。赤松俊秀氏は、この円相が慈済院本の賛文中の「観国之光」をさし、義持が輔佐すべき称光天皇(天野文雄氏は後小松上皇とする)をあらわすものとした。また宮島新一氏は、八幡信仰をあらわす日輪であるとする見解を発表した。しかしこの円相は、直接には神護寺本の賛文中の「即現勝軍菩薩身」をさし、義持が勝軍地蔵菩薩の変化身であることを表象したものであったと考えられる。勝軍地蔵の儀軌を記した伝良助法親王撰『與願金剛地蔵菩薩秘記』によれば、地蔵菩薩は、天にあって日光地蔵・月光地蔵・星光地蔵の三光となってあらわれるという。国・天竺・震旦では勝軍地蔵・破軍地蔵・鬼神地蔵を兵法の尊となすが、日本に生を受けた人で勝軍地蔵を憑まない者はない」として、「我が朝は勝軍地蔵の本国である」と説く。日本国が日光地蔵の本国であり、かつ勝軍地蔵の本国であるならば、勝軍地蔵とは日光地蔵であることになる。勝軍地蔵は日輪によって表象され、日輪とは軍事的勝利を保証するシンボルであった。同時代に日輪を描く肖像画は、「後醍醐天皇像」や「北畠政郷像」など、少なからず存在する。軍扇や兜の前立て、刀の鍔といった武具・武装、硯箱や屏風などの調度品における日輪の意匠には枚挙の暇がない。勝軍地蔵をめぐる言説は、こうした中世後期にみられる日輪文化のひとつとして生み出されていたのである。足利氏の勝軍地蔵信仰は、鎌倉中期から菩提寺浄妙寺の縁起にいち早くみられる。足利尊氏には10数点の自筆地蔵像が残るほか、尊氏母上杉清子や義満室北山院、義持祖母智泉院など、足利氏の地蔵信仰は一族の広範囲におよんでいる。義満にも2度の夢想(『翰林葫蘆集』『鹿王禅院如意宝珠記』)をはじめ、地蔵にまつわる逸話は少なくない。足利義持もまた、応永17年(1410)に自筆地蔵像を若王子社に寄進し(『古画備考』)、応永21年(1414)ころには観音・地蔵像の図画を月課としていた(『勝定院殿集纂諸仏事』)。春日本や神護寺本に描かれた地蔵像もまた、こうした足利氏の熱烈な地蔵信仰を背景としているのであろう。とはいえ、地蔵菩薩をあらわす仏画や円相を義満・義持の肖像画に描き加えるというなんとも奇抜な着想は、みずからも画技をたくみにする足利義持の個性とその政治戦略に根ざしたものと想像される。しかも同じ地蔵とはいっても、義満像には追善を目的とする来迎地蔵であるのに対し、義持像には軍神たる勝

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