―281―軍地蔵を布置している。こうした地蔵像の描き分けに義持の政治的目論見を読みとることも、あながち無理な推測ではあるまい。5、足利義満像と足利義持像足利義持像は、義持政権の政治的画期にあたって寿像として制作されていた。これに対して、足利義満像の多くは義満死後に足利義持によって発注され、親義持派の守護大名や寺社、僧侶たちに下賜された遺像であった。義持は当初、自身の寿像とともに義満の遺像を利用することで、みずからの後継者としての地位を正当化しようとする政治構想をもっていたと考えられる。近年、足利義持の政治は、反駁していた父義満の否定・断絶ではなく、適度な取捨選択を加えた上での連続性・共通性をもっていたと再評価されている。義持による肖像制作は、義満の莫大な遺産をたくみに利用した高度な政治戦略であったと考えられる。しかし、応永25年(1418)に実弟義嗣と義満室北山院日野康子があいついで死去したことで、義持はようやく父の呪縛から解放され、政権は自立化の道を歩みはじめる〔年表〕。おそらく義持政権後期においては、義満像の下賜はそれ以前ほどに行なわれなくなったと推測される。また義持死後、足利将軍家嫡流が義教流へ継承されていったことで、傍系にすぎない義持による肖像制作の事実はしだいに人々の記憶から忘れ去られていったのであろう。100年余をへた16世紀初頭の春日社司西家では、「足利義満像」が発注者である足利義持の肖像画として伝承された。約200年をへた17世紀初頭の神護寺では、威風堂々たる「足利義持像」の像容が足利義満にこそ相応しいとされて像主名が変更された。18世紀に入ると神護寺の虫払いや開帳・勧化により、とり違えられた両者の歴史的イメージは決定的なものとなった。こうして義持の肖像制作は彼方に忘れ去られ、ただ天空の地蔵菩薩だけがその足跡をとどめることになったのである。主要参考文献赤松俊秀「足利氏の肖像に就いて」(『美術研究』152天野文雄『世阿弥がいた場所』ぺりかん社 2007年門脇むつみ「家綱政権をめぐる画事」(『鹿島美術研究』22黒田智『中世肖像の文化史』ぺりかん社 2007年桜井英治『室町人の精神』日本の歴史12講談社 2001年末柄豊「『春日権現験記絵』の奉納をめぐって」(『日本歴史』695高岸輝『室町王権の絵画』京都大学学術出版会 2004年同 「足利義満の造形イメージ戦略」(『ZEAMI』4 2007年)1949年)2005年)2006年)。
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