下村観山と原三溪にみる作家と支援者の関係―286―研 究 者:財団法人三溪園保勝会 学芸員 清 水 緑はじめに下村観山(1873〜1930)は、明治から昭和初めにかけて活躍した近代日本美術草創期の一員である。横山大観と共にその名を馳せたが、現在、一般的には大観の陰に隠れてしまった観がある。しかし、当時、東京美術学校の第1回生として、大観以上に高い評価を受け、卒業と同時に同校助教授となり、その後も華々しい活躍が続いた。壮年期は、再興院展への大作の出品、数多くの注文制作、鑑定などに奔走し、順調に大家としての地位を築き上げていった。観山がここまでの大家となった背景には、確かな描写力、岡倉天心との出会い、政治家や実業家による後援会、そして、美術品の収集家・作家のパトロンとして知られる原三溪の支援があったからだと言えるだろう(注1)。特に三溪の支援は、多くの作品を買上げたほか、所有地を提供し、制作に支障がないような環境を整えたことなどの、画家としての環境作りに及んだ。本論では、そうした三溪の支援の実際が観山に与えた影響を、三溪が観山作品を所蔵した経緯や、依頼画の内容などから紐解いていく。また、これまで紹介されることのなかった観山の日記をもとに、三溪との具体的な関係を明らかにしていきたい。1 三溪の観山支援三溪は多くの作家を支援したが、最も気に入った画家が観山であったということは、しばしば語り継がれてきた。ここでは現存する資料を手掛かりに、その事実の具体例の一端を明らかにし、観山作品が三溪の所蔵となった経緯について述べたい。三溪が購入した美術品は、『美術品買入覚』(以下『買入覚』)〔図1〕全5冊から知ることができる(注2)。二百数十件の新画(近代作家作品)購入の記録のうち、観山作品は21件〔表1〕。その金額は、明治期に百円単位で購入していたが、大正期には大作ということもあろうが、千円単位になる。明治34、5年(1901、02)には、尺五絹本で、観山の師・橋本雅邦が25円、京都の竹内栖鳳が30円、昭和13年(1938)には数千円だったという(注3)。記録にみえるのは、明治末年から徐々に新画の値段が上昇し始めた頃と考えられるが、観山は相当な高値をつけられていたことがわかる。また、観山の日記(第2章参照)、昭和2年(1927)に、所得申告の写しが「揮毫料九千円、帝室技芸員年俸百円、支出千五百円、所得七千六百円」とある。この記録を
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