鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―287―(注5)。遡る大正期に、三溪が購入した1点千円単位の揮毫料が大きく占めていただろうことは想像に難くない。ところで、『買入覚』は、あくまでも購入など支払いの伴うものの記録であるが、三溪旧蔵とされる著名な作品で記載のないものも多い。観山作品についても、文展出品作《魔障図》を始めとして、再興院展出品作の《春雨》、《豊太閤》、《楠公》などの記載がない。しかし、三溪のコレクションを知るもう一つの手掛かりである所蔵品目録が数冊現存し(注4)、その中には『買入覚』に記載のないものがあり、前述の作品も所蔵品目録には記載されることから、三溪旧蔵品であったことは間違いないでは、なぜ『買入覚』と所蔵品目録に記載の有無が生じるのかといえば、これらは購入ではなく、観山の贈与という区別があったからではないか。観山作品に限らず、この件については、三上氏が贈呈か援助の返礼との可能性を指摘し、推測としているが(注6)、ここでは観山との関係に焦点をあて、考察を深めたい。これには、後援会「観山会」に関する事件が関わっていると考えられるのである。「観山会」は2度組織され、一つは明治39年(1906)に洋酒業者・倉嶋恒太郎が主唱した一時的な画会(注7)、もう一つは明治44年(1911)に渋沢栄一・高田早苗が主唱し発足したもので、観山没年まで存続した。後者は、毎年一回の旅行や、頒布会など、その活動は一個の組織を成し、観山自身、感謝しつつ疎かにせずに活動を続けた様子が窺える(注8)。観山の日記には、高田早苗ら会員がしばしば来訪し、観山会の打ち合わせを行う様子も散見される。一方、三溪も天心と、大正2年(1913)に別の「観山会」発足を試みている。この時の会則が、観山の作品はすべて同会を通じてしか購入できないという誤解を周囲に与え、観山の私物化であるとの反感を買い、結局、会は発足できなかった。三溪は観山へ書簡で弁明し、年に一作だけを依頼することで決着をみている(注9)。それによると、この会の主旨は、優品を制作できるように、観山の制作数を限り、環境をよくすることが狙いであった。三溪が美術家の支援を惜しみなく行ったことを考えると、確かに世間の誤解による非難であったようである(注10)。ところで、『買入覚』からは、この事件があった大正2年以降は、約束どおり観山作品をほぼ年に一作の割合で購入していると読み取れる。よって、幻に終った観山会設立事件をきっかけに、三溪の観山作品の購入が限られたと考えられる。では、一方、所蔵品目録中の、その他の観山の大作が三溪所蔵となった理由は、この事件からどのように考えられるだろうか。ここで、所蔵品目録から観山作品を抜粋

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