―288―する〔表2〕。表1と2を比較すると、『買入覚』21件中10件は、所蔵品目録記載の作品である(なお、「謝儀」とある作品は、年代と金額から、相当する作品を所蔵品目録から推測した)。また、逆に言えば、所蔵品目録16件中10件が『買入覚』記載の作品である。残りの6件中実に4件が展覧会出品作である。特に再興院展出品作に限ってみていくと、第1回《白狐》、第2回《弱法師》以外は『買入覚』に記載がないが、三溪の所蔵となっていることがわかる。それは、観山から三溪へ、年一作贈られていた優品であることを示すのではないだろうか。先の三溪の詫び状では、年一作を依頼するとあり、購入を意味していたようであるが、恐らく観山はこの事件をもって、三溪へ「優品を年一作贈与」という形に変えたのではないか。年一作の優品といえば、院展出品作が大きな意味を持つだろう。観山が再興院展に出品した作品は、第1回から第16回まで(4・7・10・13・14回以外)の13作品である〔表3〕。このうち、三溪所蔵となったものが初回から第8回まで、第6回以外の5作品である。特に、第5回《豊太閤》と第8回《楠公》は、三溪の注文品であったと言われ、《楠公》については観山の日記からその事実が確認できる(第2章参照)。また、第11回以降は、関東大震災以後、三溪が作家支援をとりやめた時期である。そのため、「贈与」という形であったにせよ、謝礼として何らかの対価のやりとりがあった可能性も考えれば、第11回以降の作品が三溪の所蔵とならなかったことも不思議ではない(注11)。では、第1回と第2回の作品はなぜ購入記録に残るのか。再興日本美術院発足時の「日本美術院賛助員贈呈絵画分配表」によると、賛助会員であった三溪は、大正3・4・6年分の観山作品を分配されることになっていた(注12)。つまり大正3年は第1回、大正4年は第2回の再興院展の年である。すでに分配される作品があったため、三溪は敢てこの年の代表作を買上げたのではないだろうか(大正6年は未出品)。以上のように、三溪自筆の所蔵品記録等から、観山作品の中でも大作が三溪の所蔵となった理由を考察してみた結果、幻に終った「観山会」がきっかけで一年に優品一作が三溪所蔵となったと結論付けられる。そして、一年のうちの最高傑作と考えられる院展出品作を三溪のために描いていたことから、観山には三溪の支援に対する並々ならぬ恩義があったのではないかと言える。2 観山の日記これまで、観山の生涯を細かく記した伝記には、三男・英時による『下村観山伝』が知られている(注13)。ここでは、その原典と考えられ、これまで紹介されること
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