鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―289―のなかった観山の日記を紹介し、更にその日記から三溪に関する記録を整理し、両者の具体的な関係性を読み解きたい(注14)。現在、遺族のもとに残された日記は全6冊。主に、観山へ依頼された鑑定の覚書や、書簡の発着履歴、来客者名簿といった役割を担い、当時の作家との交流もわかる資料である。記録者は観山ではなく、英時が主で、ほか観山の弟子などによる。観山は文字に対する教養がないといって手紙なども自分では書かず、観山自筆の手紙や記録はほとんど見られない(注15)。現存する日記の年代は次のとおりである。①『屋末の上』大正8年10月1日〜大正9年6月30日 記録者入江多平(注16)②『日記帳』大正9年7月1日〜大正10年10月20日 記録者入江多平・下村英時③無題 大正15年3月29日〜昭和2年3月29日 記録者中庭(煖華か)④無題 昭和2年3月30日〜10月5日 記録者中庭(煖華か)・下村英時⑤『山の松葉 下村家』大正2年10月6日〜昭和3年4月30日 記録者下村英時⑥無題 昭和3年5月1日〜昭和4年8月17日 記録者柳下晴屋大正10年10月21日から大正15年3月28日までの記録が不明であるが、その間も記録は綴られていたと考えられる(注17)。さて、本記録の中から三溪および三溪園に関する記事を抜粋する〔表4〕。残念ながら、観山作品が絶頂を極めた大正初期までの記録はなく、晩年の約10年間の記録のみであるが、この頃、大家となっていた観山にとって、三溪園は大事な客人を案内する場所であったことがわかる。観山会会員、法隆寺管長、橋本雅邦未亡人などの訪問がみられる。また、三溪園は桜の名所でもあり、観山も花見に出掛けている。肝心の三溪との交流については、大正10年(1921)の記事に、第8回再興院展出品作の《楠公》が三溪の注文制作と明記されている。更に、直後の9月には、三溪から《柿本宮曼荼羅》と《多武峯曼荼羅》を貸し出されている。これは《楠公》のお礼も兼ねていたのかもしれないが、研究に役立ててほしいとのことであろう(注18)。また、関東大震災をきっかけに三溪が作家支援を中止した大正12年(1923)以降の記録には、昭和2年(1927)4月に「弱法師半双届く」という記事があり、大正4年(1915)に三溪が買い上げた《弱法師》が、観山のもとへ「修繕」に出されている。その2ヵ月後の7月から8月にかけて5回にわたり、観山一家が三溪所蔵の名画を特別に観覧した記事がある。主に観山の次男・章と三男・英時が観覧しており、観山が同行したのは1回だけである。これは7月中旬に章と英時が海外留学から帰国したことに伴い、その報告も兼ねていたのかもしれない。ここで展観された作品は、徐煕や毛益といった名立たる中国絵画、三溪が明治期に1万円で購入し世間を驚かせた

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