―290―《孔雀明王》などの錚錚たる名画ばかりであった。これだけの逸品を観山一家に展観したということは、この頃の状況を考えると、章と英時の海外土産に対するお礼、また、《弱法師》修繕に対するお礼という意味があったのかもしれない。以上のように読み解くと、三溪は観山に対して特別な存在として非常に手厚く心がけていたこと、観山も三溪に対して礼を尽くしていたこと、などが考えられる。また、三溪は大正12年(1923)以降に作家支援を中止しても、観山と交流が続いたことが明らかである。大正末から昭和にかけて、観山は、批評家たちから大観と比べ伝統を守る描法が独創性に欠けると批判されていたが、そこには観山の頭脳であった天心を失い、陰ながら作家を牽引した三溪の支援もなくなったことが一因ではないかとも考えられた。しかし、この記録からは、三溪との交流は続き、観山にとって、三溪も三溪園も、恩義を忘れず、かつ、心安い人と場所となっていたと窺える。3 観山の画風と理想と現実ここでは、観山の画風と三溪に関わる院展出品作から、両者の関係を考察する。観山の画風は、橋本雅邦の教えによる鍛えられた線描で、伝統を遵守した作風が特徴と言われる。更に、日本画家初の官費留学生として、英国では水彩画を中心に色彩研究に励み、線と色彩の調和を得意とした(注19)。再興院展では、大正初めの観山の画風は、《白狐》にみられる琳派を意識した装飾美や、《春雨》のように文様・構図にこだわりをみせた時期であった(注20)。特に《弱法師》〔図2〕は、俊徳丸のリアルな面貌表現と大胆で平面的な夕日が好対照をなし、観山作品の絶頂期を示す作品で、当時から傑作であると評価が高い。画中の梅樹は三溪園内の臥竜梅をモデルに描いたと言われる。三溪の元を訪れていたノーベル文学賞受賞者であるインドの詩人・ラビンドラナート・タゴールが絶賛し、これを所望したが、三溪はさすがに本作を手放さず、かわりに荒井寛方にこれを模写させ、タゴールに贈ったという曰くつきの作品である。ここで本作の制作背景に触れておく。能の小鼓方の家柄に生まれ、能にも造詣の深かった観山らしく、本図は謡曲「弱法師」を描いたもので、主題は日想観を表している。実はこの年の4月初め、観山は、小鼓方の血を引く母を亡くしている。俊徳丸は生き別れた父と再会し夕日に観想する、一方、観山は亡くなった母を思い極楽浄土を願い、この作品を母に捧げたのではないだろうか。三溪との関わりで生まれた最高傑作として評価を得ているが、その背景には観山自身の体験も考えられるだろう。次に、大正中期になると、《豊太閤》、《楠公》、《天心先生》など、構図より人物表
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