―291―現にこだわる作品が多くなる。院展出品作に限らず、歴史上或いは身近な人物画を集中して描いている。観山は、芳崖、雅邦、天心の三師を非常に尊敬しており、彼等の肖像を描くことを常々希望していたのであった(注21)。その中で、前述のように、《豊太閤》と《楠公》〔図3〕は三溪の注文画であった。当時、院展といえば、画家にとっては大舞台であったと言える。絵画が芸術文化として世間の注目を浴びるようになり、天心のスキャンダルによる東京美術学校排斥事件に代表されるように、画壇は政治・官僚と結びつき、世間を騒がせるほどの事件になりえたものであった(注22)。大展覧会が催され、各誌上では多くの批評が寄せられた。今でも院展は、当初の理念や伝統を失いつつも、日本画壇の一つのステイタスシンボルとして90年以上の重みを担っていると思われる。そこに出品した作品が買上げられるということは非常な名誉であっただろう。かつ、買上げる側にとっても同様であったと想像される。よってここでは、出品作が注文作であることに注目したい。三溪が《楠公》を依頼した理由は、楠正成を尊崇していたからと思われる(注23)。従って、楠公の画像を観山に依頼することは、信頼する一流の画家に、尊敬する歴史上の人物を大舞台に飾ってもらうということを意味し、三溪にとっても意義深いことであったと考えられる。それでは、観山の作画に対する理想は、三溪の依頼画に応える際、どのように昇華されただろうか。大正初期、美術界では、文壇の白樺派の影響を受けた「フュウザン会」が西洋の思想を採り入れたり、今村紫紅らが中心となった「赤曜会」が古き日本の伝統を打破したり、おおらかで自由な考えのもと、様々な試みから生まれた作風が展開された(注24)。しかし、彼らに打破された伝統、それが観山の画風であった。線描を大切にした画風は、当時の傾向の中では評価されにくく、大正中期以降、観山の評価は若手作家や大観の陰に次第に隠れていった。また、第2章で紹介した日記からは、当時の多忙な日々が浮かび上がる。毎日客人は絶えず、鑑定や箱書、観山会や販売用の百貨店への制作、揮毫依頼にも応えなければならない。先の赤曜会が理想とした作風は、自由闊達な心の動きを表す写生であり、風景画であった。しかし、観山にとっての理想は、美しい線描を大事し、計算された色と構図で、丹念に描く作品であったに違いない。現実の日々の中、三溪の注文はそのような観山の理想を具現化する依頼でもあり、二人の嗜好が一致した結果と言えるだろう。おわりに以上のように、整えられた制作環境、これが観山にとっては質の高い作品を生み出
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