鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―22―「宮殿建築を迎賓館に改装するということは、抽象的には、人間的な空間の考え方を戦後、皇室から行政に移管されたこの建物は、国会図書館等に利用されていたが、我が国に外国の賓客を迎える施設がなかったことから、昭和38年(1953)に迎賓館の建設構想が生まれた。そして、改装を加える既存建物の候補として、旧赤坂離宮に白羽の矢が立つ。その背景には、古い宮殿を国の迎賓館施設に転用していた西欧諸国に倣うと同時に、由緒ある建物を積極的に活用しようという考えがあった。そして昭和42年(1967)、旧赤坂離宮を迎賓館として改修することが最終的に閣議決定され、大掛かりな工事が開始される。全面改修の設計と総指揮を受け持った村野藤吾は、工期について、「5年余を工事に、設計期間を通算すれば7年にわたる長期の仕事であった」と語っているが、改装工事の理念と技術面での実際に関しては、変えることを意味し、技術的には、昭和時代の改装だから、昭和時代が反映されることも自然であろう。(中略)なかんずく室内の装飾やたたずまいなどは、旧態にこだわらず、材料も手法も色彩なども、ずっと明るくして、新しい時代と用途にそうような結果となった」(注2)と回想している。ところで、この改装事業が内装段階まで進行した昭和48年(1973)、本館2階大ホールの正面壁を飾る壁画の制作が小磯良平に委嘱された。制作の依頼を受けた時、小磯良平は70歳であったが、東京藝術大学教授を定年退官して程なく、再び画家としての活動に専念しようという時期であった。大学の教室では自由な指導で個性的な後進を輩出しつつも、「私が画家である事と教師である事とが中途半端な状態」と語る小磯にとって、壁画制作の話は、まさに“渡りに舟”であったと思われる。小磯が壁画の制作依頼を受けた2階大ホールは、迎賓館に到着した来賓が、豪華な大理石床の上に重厚な絨毯が敷かれた中央玄関ホール、中央階段を経て2階に上がった時、真っ先に目にする場所であり、迎賓館の顔の一つとも言える壁面である。そしてこのホールには、フランス18世紀の様式が採用され、大円柱にはイタリア産の紫斑紋の大理石が使用されているが、壁、柱、シャンデリアなど内装の豪華さもさることながら、その空間的な心地よさが一際印象的なスペースである。小磯作品が位置しているのはその正面壁であり、中央扉を挟む数メートルの距離を置いて、左に《絵画》、右に《音楽》が掛かっている。この一角はコの字型になっているが、正面壁から左右各90°の側壁に、2作品とほぼ同じ大きさの鏡が添えつけられていることによって、壁画を取り巻く空間一帯の無限性が演出されている。そして、ここに飾られている小磯の作品は、一般に“壁画”と呼ばれて親しまれているが、壁面に直接描かれたものや、取り外せないように設置されたものではなく、2点とも普

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