注観山は狩野芳崖、橋本雅邦から「懸腕直筆」の薫陶を受け、天心との関係は「天心の頭脳が観山の手を動かした」と言われるほどであった(木村武山「下村さんの若い頃」『塔影』第12巻第7号,塔影社,1936年,47〜48頁/坂井犀水「現今の大家十二 下村観山」『美術新報』第10巻第3号,画報社,1911年,77〜81頁)。原三溪(1868〜1939)は横浜の実業家。古建造物の移築・保存に努め、1906年に日本庭園「三溪園」(横浜市中区・国指定名勝)を開園、市民に開放した。三溪の作家支援、古美術収集については、以下の論考がある。①三上美和「日本近代美術の蒐集家―原三溪の美術蒐集記録『美術品買入覚』に見る近代美術コレクションについて」『学習院大学人文科学論集』第12号,学習院大学,2003年,1〜39頁 ②三上美和「原三溪の美術家援助」『学習院大学人文科学論集』第13号,学習院大学,2004年,41〜72頁 ③石田治郎「原三溪翁の近代絵画コレクション『美術品買入覚』から」『御舟・青樹・I村―原三溪ゆかりの作家たち』三溪園,1991年,74〜79頁 ④石田治郎・川幡留司「原三溪と院展作家」『日本美術院百年史』第4巻,日本美術院百年史編纂室,1994年,1109〜1124頁 和綴じ本3冊、ノート2冊。三溪園所蔵。明治26〜昭和4年(1893〜1929)までの三溪自筆の購入記録。金額や取引先が記入され、近代美術史をコレクターの立場から検証するには貴重な資料である。■小林一三「明治時代追憶」『東美』第4号,東京美術青年会,1938年,50〜55頁■所蔵品目録は、美術品が収蔵されていた建物別(松風閣・隣花庵・臨春閣・清風居)に11冊現存する。記録の年代は1冊以外不明。収蔵場所を変えた可能性があるため重複もある。他の建物にも蔵があるため、目録はこれが全てではないと考えられる。『松風閣蔵品書画彫刻』『松風閣蔵器諸種器物』『松風閣蒐蔵目録書画彫刻』『松風閣蒐蔵目録諸種器物』『隣花庵蔵品書画器物』『隣花庵什品書画器物』『天 隣花庵什物書画彫刻』『地 隣花庵什物茶器』『大正十三年春正月 書画目録 清風居鑑蔵』『桃山史料臨春閣蔵品』『臨春閣桃山史料目録』、ほか『三溪文庫 除去品覚』(売却・贈呈の記録)。■例えば《魔障図》は、東京国立博物館が原家から昭和23年に一括購入した、三溪旧蔵近代コレ―292―す原動力になり、パトロン・三溪の果たした役割と言える。一方、作家を成長させ高値で買上げることで、世間に認められると、作品の価値は高騰を始める。注文が多くなり、乱作の結果、作品の質も下がる。作家を彼等の商品、投資の対象とせざるを得ない状況を作ってしまう危険と表裏一体である。筆者は、本論を進めるにあたって、当初、観山画の理想は出品画にあり、三溪らの注文画とは一線を画するのではないかと想定していた。しかし、観山の日記、および、観山と三溪の関係を当時の様子から探ったところ、当初考えていたこととは逆で、観山が三溪に対して、単なるパトロン以上の思い入れがあったようであることに気づかされた。日記を記していた英時が、三溪の支援について語った文章からも首肯される(注25)。何より、出品画=三溪の注文制作という作品があったことに、両者の深い結びつきがあったのだといえるだろう。
元のページ ../index.html#300