鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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■前掲注②参照■下村英時『下村観山伝』大日本絵画,1981年,113頁■黒須広吉「観山会の思ひ出」/高田早苗「観山君を哭す」(いずれも『美之國』第6巻第6号,前掲注■,165〜167頁。筆者はこの会則及び書簡を確認することができず、掲載書に依った。前掲注②では、三溪が投資を目的に打算的に援助した批判も否定できず、近代美術の蒐集・援助行為が一過性のものであり、心から近代美術を愛して育成しようといった志がみられないことを指摘しているが、この観山会設立の経緯を考えると、むしろ、近代作家育成に対する真摯な態度がみえる。茶道具などの購入は震災以降も続けているが、当代作家作品の買上は完全に中止している。また、大正9年1月は生糸価格が大暴落し、この前後の年で三溪は例年より美術品の売却が多い。そのため大正8年は観山作品の買上がなかったのかもしれない。ただし、第6回・第9回の作品が三溪所蔵とならなった理由は、天心肖像であることや当時の所蔵者に渡った経緯を再考する必要がある。『日本美術院百年史』第4巻,日本美術院百年史編纂室,1994年,976〜977頁前掲注■。英時は観山の秘書を務め、戦後は近代日本美術史の研究に従事。本書は、英時の原日記には、後世、資料として見直した跡が見られる。記述内容などから、英時が『下村観山伝』斎藤隆三「観山さんの思ひ出」『美之國』第6巻第6号,美之国社,1930年,23〜26頁②に「多平記」とあり、同じ筆跡から、①も多平と同定できる。英時が記した②の後半に「入江多平」と記述があることから、これを入江多平とした。不詳だが、観山の長女が嫁いだ能面師が「入江美法」で近くに住んでいたため、親戚の可能性もある。中庭・柳下も記述内容から推定。③の裏表紙には大正10年12月24日〜大正11年という書付がみられ、これら一連の日記が何らか 両曼荼羅とも現在大和文華館所蔵。観山は仏画・仏像を始め美術研究に研鑽した(平櫛田中「観山氏と彫刻」『美之國』第6巻第6号,美之国社,1930年,26〜28頁)。また、藤田青花という元弟子が観山のもとに出入りして、仏像や壷などを扱っていた。藤田は仏像や考古学研究の道に進んだ人物。■下村観山「洋行前に見たる日本画」『研精画誌』9号,1903年,14〜17頁 観山は古い着物や小物を収集する趣味があった。日記、大正8年巻末に、時代物の打掛・振袖・詰袖などの目録と、末尾に「江戸協会へ出品せしものなり」とあり、所蔵品の可能性が窺える。また、鏑木清方「下村氏の業績」(『美之國』第7巻第4号,美之国社,1931年,58〜59頁)にも触れられている。■前掲注参照■北村由雄「戦後の東京美術倶楽部」『美術商の百年 東京美術倶楽部百年史』東京美術倶楽部,―293―クションの1点である(嘉門「原家旧蔵近代日本画と三越献納画」『MUSEUM』19号,東京国立博物館,1952年,25頁)。本図に対する三溪から観山への礼状が存在し(遺族所蔵・神奈川県立歴史博物館寄託、お礼を手形で送る旨記載)、明治43年文展出品作ということから、『買入覚』明治44年の「金一千円 観山先生謝儀」が本図への謝礼に相当すると考えられる。美之国社,1930年,28〜29頁/32〜34頁)稿に細野正信氏の補注を加え、1981年に刊行したもの。を成すにあたり、資料として活用したことがわかる。の理由で綴じ直され、一部、不明になったと推察される。

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