■三溪は明治42年、「楠公社」を大阪・勧心寺から三溪園へ移築し、毎年5月25日に楠公祭を園内で開き、教育者や児童を招いて礼拝していた。「楠公図」は江戸時代、狩野派などに、徳川政権の政治的思想の象徴として多く取り上げられた。また、《豊太閤》についても、三溪が秀吉を好んで秀吉関連の書画器物を集めたことによる依頼画と思われる。■フュウザン会は、後期印象主義・フォービズムに傾倒した美術家により結成されたが、結成翌年の大正2年解散。参加者の岸田劉生は、三溪の長男・善一郎と親交があった。また、赤曜会は、松本楓湖の安雅堂画塾塾生・紫紅一派の研究グループとして発足し、紫紅の死によって1年で解散。三溪は紫紅に目をかけて、赤曜会出品作を一括買上げているが、三溪の絵画嗜好からは、この急進的な作風にあまり賛同していなかったようである。下村英時「観山の前と後―芸術家の指導者と後援者―」『萌春』71号,1959年,7〜10頁―294―付記本稿を成すにあたり、日記の紹介を快くご承諾くださったご遺族・下村茂氏をはじめ、多くの方々にご指導・ご協力を賜りました。末筆ながらここに記しまして、深く感謝の意を表します。2005年,166〜186頁「芸術院と市場価格」の中で、衆院文教委員会で日展理事の腐敗が糾弾されたことについて述べている。文化勲章受章の陰に政治家への働きかけ、受章による作品価格の高騰など、芸術の在り方は不合理に満ちている面もある。
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