A斎の略歴は、「寛政六年、(略)政美は一介の町絵師から作州(岡山県)津山藩の―301―同じ場所で作られた可能性が出てくる。『鳥獣略画式』『人物略画式』ともに「文化癸酉六月」「浪花筆林」と埋め木された奥付本が存在するということは、当時板木は大坂にあったことになる。大坂本屋仲間の板木台帳である文化9〜15年(1812−18)成立『板木総目録株帳』に略画式系絵手本の全てを見いだせる(注14)ことも、その裏付けとなる。須原屋市兵衛の死後、主要な板木は大坂に流れていったようだ(注15)。ただし『略画式』については、実際に大坂の版元名が記された奥付を持つ本は未だ管見に入っていない。『山水略画式』『魚貝略画式』の改刻本もまだ確認できていない。このような改刻例が他にあるのか寡聞にして知らない。ご教示を仰ぐとともに、今後の課題としたい。2、A斎の狩野派入門時期について御抱絵師に破格の出世を遂げたのだった。寛政九年には北尾姓を母方の実家の鍬形姓に変え、第九代藩主康乂の命により狩野養川院惟信に入門し、名も紹真へと改め」た、と語られることが一般的だ(注16)が、史料の裏付けがあるのは「鍬形」姓への改称までであり、狩野派入門時期と「紹真」改称時期は典拠が不明である(注17)。このうち、「紹真」改称時期については、版本における「紹真」使用時期と照らし合わせても齟齬はない。しかし、狩野惟信への入門時期についてはどうだろうか。寛政7年正月刊の狂歌絵本『四方の巴流』に興味深い挿図がある。A斎は同書に合計3図ほど挿図を寄せているが、そのうちの「七福神に鶴」〔図8〕は、洞秀美敬・東牛斎蘭香・狩野休圓・秀山敬順・鈴木鄰松・養意雅博・松意茂愽・鍬形A斎の合計8人による合作であり、A斎以外の7人は皆狩野派に関係する絵師だと思しい(注18)。なぜA斎がこの中に名を連ねているのか。寛政6年12月、A斎は、『略画式』に先行する最初の絵手本『諸職画鑑』を脱稿している(注19)のだが、同書に収められた図、特に漢画系人物などは狩野派学習の跡をうかがわせる画風で表されている〔図9〕。御用絵師になってから狩野派入門までに3年もの間を置くのはいささか不自然に思えてならない。A斎の狩野派入門時期は、御用絵師に登用された寛政6年中だった可能性を考える必要がないだろうか。ちなみに、『四方の巴流』に収められた他の2図「正月街頭」「“狂歌”の文字を組
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