鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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絵が見開き1丁あるいは半丁で1図の形式が主流であること。したがって各図 一タイトル数冊から成り、大部であること。■多色摺もあるが墨摺が主流であったこと。■画者は、狩野派に連なる絵師、または当時勢いのあった南蘋派が非常に多いこと。特に、浮世絵師が携わった例は、磯田湖竜斎『混雑倭草画』(天明元=1781年刊)、窪俊満『画鵠』(同3年刊)が目に付くくらいである。〔表1〕から風俗絵本が省かれA斎最初の絵手本『諸職画鑑』が刊行されるのは寛政7年である。A斎も浮世絵師―302―み上げる人たち」は、明らかに略画体である。A斎の略画体表現は以前より作品の端々にうかがえるとされるものの、少なくとも本書挿絵は出版物において略画体が顕著に表れる早い例である。早くから略画体画風も自らのレパートリーにあったのかもしれないが、同書には『略画式』誕生に繋がる要素が見え隠れしている気がする。3、絵手本の展開―『略画式』の工夫と絵手本の変容―すでに江戸時代に「光琳芳中が筆意を慕ひ略画式の工夫行れし事世に知る所なり」「近年絵手本は此人の筆多し是より世に薄彩色の画手本大いに流行す」(注20)と評されたA斎だが、『略画式』は当時の絵手本の中においてどのように位置づけられるだろうか。その手がかりとするべく、『略画式』前後に出版された主要絵手本と『略画式』との比較を試みた〔表1〕。そもそも絵手本の定義は曖昧であり、おおよそ絵を伴う本の全てが絵を描く際の手本に成り得るが、今回一覧表を作成するにあたっては、〔表1〕凡例に記したごとく除外した本もある。まだ未見本や漏れも相当にあり、修正すべき箇所も多いため、今後とも改訂に努めたいが、A斎以前の絵手本は概ね以下のようにまとめることができよう。の完成度も高く、絵画的である。ている影響もあろうが、この時代、浮世絵師が黄表紙・狂歌絵本・風俗絵本などの版本制作にむしろ精力的に関わっていたことを考えれば、諸派のような絵手本を制作しなかった点は特筆に値しよう。時代、出版界に親しみ、黄表紙を中心に挿絵の仕事を多く請け負っていたにもかかわらず、絵手本を刊行したのがお抱え絵師として登用された後であるのは偶然ではないだろう。先述したように狩野派に近づいたのが寛政6年中であれば、絵手本という仕事を行うべき絵師というゆるやかな境界線が見えやしないか。さて、A斎以前の絵手本と比較した時、『諸職画鑑』の特徴については以下のこと

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