注漆山又四郎「北尾政美と其の作品」『書物展望』8−1,1938年、同「鍬形A斎の絵本」『画説』―304― 狩野博幸「鍬形A斎絵本の検討」『MUSEUM』338,1979年。■小澤弘「津山藩抱え絵師鍬形A斎紹真の研究序説」『調布日本文化』1,1991年。■福岡大学図書館所蔵『和本の美』リーフレット,2003年。サイトURLはhttp://www.lib.fukuoka-■津山市教育委員会・太田記念美術館『鍬形A斎(北尾政美)』展図録,2004年。■注漆山「鍬形A斎の絵本」の「二三、略画式」の項。同項の文章中に奥付を「寛政丁巳秋九『略画式』の独自の工夫は、その略画表現とちりばめ形式の双方にあったのだろう。須原屋市兵衛の訴えは実を結ばなかったのか、『文鳳麁画』が絶版になった様子もなく、文鳳は享和3年にやはりちりばめ形式の『文鳳漢画』を刊行している。しかし、その後この形式の絵手本は影をひそめる。須原屋市兵衛への遠慮があったのかもしれない。このような動向に前後して、本格的な筆法の解説ではなく、図の組み立て方を具体的に図解した絵画教本というべきものが刊行される。円や方形の単純な形を組み合わせて図様を構成してゆく『鈍画早稽古』(享和2年刊)、墨のしたたりに描き加えて絵を作ってゆく『頓智早席画譜』(文化5年刊)、いわゆる文字絵の指南書『己癡群夢多字画尽』(文化7年刊)などである。これらは遊びや鑑賞も兼ねているだろうが、絵を早く学びたい素人にとっては至極実用的でありがたい絵手本だったに違いない(注26)。その背景には、そうした素人絵描きの絵手本受容の高まりを見ることができるだろう。おわりに喜多村庭節は『武江年表補正略』において、A斎の「北斎はとかく人の真似をなす」との発言を記録し、その要因のひとつに「『略画式』をA斎が著して後、北斎漫画をか」いたことを推測した(注27)。『北斎漫画』に描かれたモティーフ自体に『略画式』の影響はさほど感じられないが、草体画風によるちりばめ形式という手法には、『略画式』からの絵手本展開の一端を垣間見ることができる。まさにA斎の発言はそこに起因するのではないか。『北斎漫画』刊行年の文化11年、『略画式』の版元・須原屋市兵衛はもはやこの世の人でなかった。16,1939年、仲田勝之助『絵本の研究』美術出版社,1950年 など。u.ac.jp/e-library/tenji/wabi/wabi-top.html。月」と記しているのは誤植だと思われる。
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