―313―風景という自然を描くための構成要素としての役割を担っている(注16)。換言すると、風景表現を目的とした水浴図が確実に存在したということを、これらの作品は物語っているのだ。ジャ・ド・ブファンの装飾のために〈朝〉と〈夕〉の情景を、その繊細な光の効果を描き分けた画家は、その制作期間に前後して訪れたルーヴル美術館に所蔵されており、後年自ら関心を示しもした、ヴェルネの〈朝〉に気づくことはなかったのであろうか。ヴェルネの〈朝〉には多くの水浴者が登場していたが、この水浴者という要素を含んだ、風景としての水浴図という文脈は、プロヴァンス地方で流通した、あるいはブランの『全流派画人伝』に掲載された版画やルーヴル美術館の所蔵作品を参照することによって、当時の画家にとって十分に確認可能なものであった。このように別荘の装飾として提示された風景表現にかんする画家の知識、そしてその点にまつわる当時のイメージ環境を検討すると、風景としての水浴図という新たな文脈が浮かびあがる。この文脈を考慮に入れた上で、あらためて画家の施した加筆の意味を再考する必要がある。裸体をめぐるトポスとしての水浴図ところで風景としての水浴図についての具体的な作品や言説は、同時代の文脈においてどの程度確認可能であったのだろうか。19世紀においてあまたの画家が取りあげたこの水浴というテーマ自体が、裸体表現の口実としての役割を担っていたことは言を俟たない(注17)。『19世紀万有大事典(19世紀ラルース)』の「女性水浴図‘baigneuse’」の項目を参照すると、ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル〔図12〕やクールベの水浴図〔図2〕の紹介に続いて、ウェヌスやディアナなどの神話主題、そしてスザンナやバテシバなどの宗教主題といった水浴にかんする物語画の伝統を説明したあとに、次のような総括が簡潔になされている。水浴図が裸体をめぐるトポスとして、第一に理解されていたことの証左である。「無遠慮な何者かのせいで驚き震えており、その挙動を通して、自らが露わにした魅力を急いで隠そうとしている、水浴の女のものよりも優美なタブローがあるだろうか!芸術家、画家、そして彫刻家の多くがこの主題に魅了されて、歴史的な関心をまったく抱かずにこのテーマを扱った。」(注18)風景をめぐるトポスとしての水浴図いっぽうで、同事典に挙げられた作例の中にこの説明にそぐわないものがある。
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