鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―314―ラ・イールの制作した水浴図〔図10〕はその典型だ。作品を観察すると、裸体を描く口実としての物語がないこと、あるいは裸体の表現を第一の目的とはしていないことがわかる。17世紀のローマを嚆矢として、次世紀の初頭にロジェ・ド・ピールによって理論化の機を得た風景画の伝統という文脈を必要としているラ・イールの作品は、同事典の総括にあった裸体をめぐるトポスではなく、風景をめぐるトポスにおいての理解を必要としているのだ(注19)。この点については既に言及したヴェルネの諸作品同様だ。1867年に出版された同事典の作品記述では、風景を構成する諸要素に対する言及が散見される。この文脈に登場する裸体表現、すなわち「その大半が裸である多くの女性の集まり」は、あくまでも「風景を賦活、そして賦彩する」という点にその意義があるのだ(注20)。ヴェルネやラ・イール、そしてファン・ハイスムの水浴図が所蔵されていたルーヴル美術館に代表されるパリの環境を対象としたいっぽうで、セザンヌの故郷であるプロヴァンス地方のイメージ環境を検討する必要がある。画家の着想源として先行研究で既に言及されている(注21)のが、プロスペル・グレジーの制作した水浴図〔図13〕である。残念なことに、この作品についての同時代の証言は残されていない。だがこの水浴図を制作するにあたって多大なる影響を与えたとされている、ある水浴図にかんしては1839年のサロン評が残されている(注22)。グレジーの師であり、友人であったジュール・デュプレが制作したものだ〔図14〕。現在では失われてしまったプロスペル・マリラの水浴図(注23)とデュプレのそれを比較しながら論じられたサロン評において、「古代美の女性」と「平凡な裸体」という表現を用いて、評者であるシャルル・ブランは確かに裸体表現の相違に言及している。だが風景を構成する諸要素に言及したのちに、デュプレの水浴図にフランドル画派の特質を見出したブランの念頭にあったのはむしろ、世紀初頭にピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌによって分類されたのち、後世まで受け継がれていくこととなったいわゆる「歴史的風景画」と「田園的風景画」との相違である。この記述がブランのサロン評の風景の項目に記載されていることも考慮に入れると、これらの水浴図は、第一に風景として理解されていたと言ってもよい。プロヴァンス地方の風景描写に卓越した画家の一派である、いわゆるプロヴァンス派の一員であったグレジーは、デュプレがイル・ド・フランスの風景を背景として制作した水浴図を、南仏を舞台とした水浴図として描き直したのだ(注24)。このような風景としての水浴図にかんする画家の関心は1846年に制作された《サント=ヴィクトワール山とボンフィヨンの村》〔図15〕にすでに現れていた。ところで初期時代のセザンヌと同時期に活動した画家に、ポール・ギグーがいる

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