―315―(注25)。プロヴァンス派の一員であり、プロヴァンスをはじめとした地方の風景描写によってパリの画壇で名を挙げたこの画家も水浴図を制作している。来歴を考慮すると、裸体の人物像と着衣の人物像のいずれもが登場する《水浴の女たち》〔図16〕(注26)をセザンヌが参照できた可能性は低い。いっぽうで1865年の『腐蝕銅版画家協会のアルバム』に掲載された《サン=ポールのデュランス川の岸辺》〔図17〕(注27)を参照する機会があったのかもしれない。エッチングという媒体で制作されたこの作品はそもそも、1864年のサロンに展示された自らの作品に倣ったものであるため、当初の油彩画についてのサロン評が残されている(注28)。「淡く透明な青い空とプロヴァンス風の色合いの砂浜が対照をなしている。」という一節から伺える、その南仏の風景描写の卓抜さにおいて称賛されたギグーの作品はすなわち、風景としての水浴図の伝統に対する、現実の場面の風景描写を得意とした画家による応答なのだ。この風景としての水浴図の諸作例が、特にプロヴァンス派の画家たちが制作したそれらが寄与するのが、歴史的にプロヴァンス地方のランドマークとして描写されてきた、サント=ヴィクトワール山(注29)を背景とした水浴図〔図18〕を考察するさいである。この点を検討するにあたっては、1870年代のはじめから開始された、パリの郊外やプロヴァンス地方を拠点とした風景画家としてのセザンヌの活動にも目を向ける必要があるだろう。おわりに本稿では《岩場の水浴の男》にまつわる議論を展開してきた。1860年代の人物画家としてのセザンヌの活動(注30)やいわゆる前衛の画家として側面を想起すると、加筆された裸体の人物像の大きさや、その着想源としてのクールベの先行作例を使用すること、そしてその大胆な筆触の使用法は至極納得のいくものである。後年の加筆と分割によって期せずして前景化された裸体表現は、そもそも別荘の装飾というコンテクストのもとで制作された風景装飾の中に存在したものだった。対面の風景装飾として制作された〈朝〉と〈夕〉という一日の時間の表現の伝統について何らかの知識を有した画家は、ルーヴル美術館に所蔵されたヴェルネの《水浴:朝》を見たさいに、一日の時間の表現としての水浴図という文脈に、あるいは『全流派画人伝』のヴェルネの版画やルーヴル美術館での諸作例を見たさいに、風景としての水浴図という文脈に触れる機会があった。『19世紀万有大事典』の総括に見られたように、当時水浴図は裸体をめぐるトポスと同義として理解されていた。セザンヌが後年制作することとなる一連の水浴図とて、その例外ではない。いっぽうで、従来の研究では等閑に付さ
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