原田直次郎研究―322――作品と関連資料の整理をふまえて―研 究 者:和歌山県立近代美術館 学芸員 宮 本 久 宣はじめに明治33年(1900)の白馬会講演会において、安藤仲太郎はそれまでの洋画の変遷を回顧し、画風の変化を起こした人物として、フォンタネージ、原田直次郎(1863−1899)、黒田清輝の三人を挙げている(注1)。このうち原田については、確かに他のふたりに比べるとその影響は小さかったかもしれない。しかし同時代の画家がメルクマールとして名前を挙げる程であったにもかかわらず、明治20年代に残した仕事の意味など、本格的には考察されてきていない。それには最初に、原田の全体像を振り返るために必要な作品と資料の整理、紹介がなされていないことが大きな要因である。そのため本研究では、原田の位置づけを再考するとともに、個々の作品についても考察を深める契機とするため、まずその作品と資料の基礎的な調査を行い、活動の全体を整理することを目的とした。この調査の成果は、平成18年(2006)に筆者が企画に加わり開催した「森4外と美術」展の図録において、「原田直次郎作品集」としてまずは公表することが出来ている(注2)。そこでは原田の絵画作品について、雑誌や新聞の挿絵等の仕事や印刷物に図版でのみ確認できるものも含め、これまで確認できていた作品と今回の調査で新たに見いだすことができたものを合わせカラー図版で紹介した。完全版とは言えないが、原田の作品集としてはほぼ初めてのものである。本稿では資料や文献の調査など、さらに今回の成果全体をふまえた上で、西洋絵画の翻訳者、移植者として原田直次郎の残した仕事を整理、考察していきたい。ドイツへの留学とその背景原田直次郎は、ヨーロッパへ渡り絵画を学んだ日本人では先駆者のひとりであるが、明治初期に当初から絵画の学習を目的として、私費で留学することができた背景には父原田一道の存在が非常に大きい。元々原田家は備中浅口郡大島村(現在の岡山県笠岡市西大島)で、代々医術を生業としてきた家系である。当主は万城(ばんじょう)という屋号を継承してきている(注3)。父一道も江戸に出て蘭学を修めたが医者の道には進まず、その知識を生かし幕府の洋学研究教育機関である蕃書調所の教授手伝となった。文久3年(1863)には、
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